[#表紙(表紙.jpg)] 柳 美里 女学生の友 目 次  女学生の友  少年倶楽部 [#改ページ] [#2字下げ] 女学生の友  耳鳴りだろうか。しかし、それがどんな音なのか他人の耳鳴りを聴いたことなどないのだから耳鳴りだと決めつけるわけにはいかない。幻聴かもしれず、ホワイトノイズとかいう完全雑音の可能性も考えられる。  キーン、ジーンという音が入り混じった深夜の冷蔵庫の唸《うな》りに似たノイズが左のこめかみあたりで響いている。この不快な音に悩まされるようになったのは春先あたりからだから、七ヵ月以上もつづいているわけだ。最初のころは耳をふさいだり、唾《つば》を飲み込んだり、拳《こぶし》で頭をたたいたりしてみたがなんの効果もなかった。それだけではない、三日に一度くらいの割合で瞼《まぶた》の裏に痛みを感じ、あわてて目を瞑《つむ》るしかないこともある。しばらく待って、おそるおそる目を開け、閉じたり開けたりしながら目やにを手の甲で拭《ぬぐ》って、ようやく起きあがることができるのだ。時間にすればせいぜい三、四分というところだろうが、深刻な病気がからだを蝕《むしば》んでいるのではないかという澱《おり》のような不安とともに一日を過ごさなければならない。「家庭の医学書」の類で調べたら、からだや脳に病巣があるわけではなく、睡眠不足、不安神経症、鬱病《うつびよう》にみられる症状だとわかってすこしほっとした。精神の病などとっくに患《わずら》っているのだ。目の痛みや翳《かすみ》は緑内障《りよくないしよう》か白内障《はくないしよう》の疑いがあるにしても、医者に行く気にはなれない。歯科であれ耳鼻|咽喉《いんこう》科であれ内科であれ、医者は嫌いだ。七十二歳で逝《い》った父親の死因は直腸|癌《がん》だったが、遺伝しているとして、同じ直腸に癌が発見されても手術するつもりはないし、人工肛門をつけられてまでの延命は、断固拒否する。まだだれにも耳鳴りと目の痛みのことは話していないが、五年まえに動脈瘤破裂《どうみやくりゆうはれつ》であっけなく逝ってしまった妻が生きていれば告白していただろう。妻だったら病院に行くようしつこく迫っただろうし、いくらいやだといい張っても予約を入れ、どんな手を使ってでも病院に連れて行ったにちがいない。妻はいいときに逝った。もし退職後だったら淋しい葬式になっていただろう。退職の三ヵ月まえだったから花も弔問客《ちようもんきやく》もたくさん集まり、にぎやかに送ってやれたのだ。  何時だろう。通常の朝の目醒《めざ》めだったら、洗顔して商店街に出かければ目はもとに戻るし、歩いているうちに忌《い》まわしい耳の唸りも消える。最悪なのは、真夜中に起きて脳細胞が警報を発しているようなノイズを聴きつづけなければならないときだ。いまは何時だろうか。  弦一郎《げんいちろう》は薄目を開けた。  蛍光灯《けいこうとう》の光がいっせいに瞼のなかに侵入し、痛みはなかったが目を閉じた。ベッドに横になってウイスキーのウーロン茶割りを呑みながらテレビドラマを観ているうちに眠ってしまったのだ。夜のニュースが流れているからまだ十一時ごろだろう、眠ったのは二時間ちょっとだ。  遠くの国で戦争が起きている。  あまりに長期にわたる空爆《くうばく》のせいで、キャスターの声は交通事故や頻発《ひんぱつ》するアジア系の強盗団の事件を報じているときとまったく同じでなんの緊張感もない。自分とは関係がない、弦一郎の胸に悲哀とも自嘲《じちよう》ともつかない索漠《さくばく》たる思いがこみあげてきた。  朝五時から八時過ぎまで、ほとんどのチャンネルでニュースを流している。天気予報も何度もくりかえされるが、晴天だろうが寒冷前線が北上しようが、弦一郎にはなんの関係もない。二、三年まえまでは政治家や|官僚の《かんりよう》スキャンダル、惨《むご》たらしい殺人事件や児童|虐待《ぎやくたい》などのニュースを見聞きするたびに怒りを覚えたが、ある日いくら激怒しても自分は関与も参加もできないのだと気づき、憑《つ》きものが落ちたようになにも考えないようにしようとこころに決めた。距離を置いて世間を眺めてみると、実はだれも、なにも考えていない、ということに気づいて呆然《ぼうぜん》とした。より良く生きたいから、ひとは考えるのだろう。愚《おろ》かな考えしか思いつかないとわかってはいても、苦境を脱したいからこそ考えることにしがみつく。しかしいつのころからか皆、考えることは不利だと悟ったのではないか、弦一郎にはそうとしか思えない。より良く生きるために必要なのは金だという了解は、戦後十年ぐらいはそれほど行き渡っていたわけではなかったが、高度経済成長期にひとびとの意識の底にまで浸透《しんとう》し、揺《ゆ》るぎない主義になってしまった。いまやひとびとは市民というよりは消費者で、より多く消費する人間が尊重され、コストが高くつく老人は蔑《さげす》みの目でしか見られない。弦一郎は老若雇用《ろうにやくこよう》機会均等法が成立しないことに腹をたてたことがある。広告に目を通しても男女に拘《かかわ》らず五十代以上に求人がないのは、労働力としての価値がないというより、邪魔者《じやまもの》だということを知らしめるための一種の社会的制裁なのではないかと疑うしかない。コンビニやファーストフードなどの職場は若者たちが独占し、客の主力が同じ若者だからという理由があるにせよ、レジ打ちさえスムースにできないような愚鈍《ぐどん》な茶髪《ちやぱつ》の若者を目にするにつけ、社会の陰謀《いんぼう》だという疑惑は増すばかりだ。優秀な店員として働けるかもしれない老人を雇用しない理由として考えられるのは、若者は日給のすべてどころか、レオタード姿で踊る女の猥褻《わいせつ》なCMを流す消費者金融で借金をしてでも消費するが、老人は日給の五千円のうち二千円を預金しかねない社会の敵だと見做《みな》されているからだろう。資本主義は恐い、と弦一郎はあくびとともに目をひらいた。  だからどうした、とつぶやいて、もう一度本格的に眠るにはビールを呑むしかないと思ったのだが冷蔵庫のなかにはない。コンビニに買いに行ってもいいが、階下におりて嫁の佐和子《さわこ》と口をきくのがわずらわしい。  杉並区|方南町《ほうなんちよう》にあるこの家は、弦一郎の父親が昭和三十年代に建てた二階家で、妻の死後、それまでマンション暮らしをしていた息子夫婦が同居するようになり、その際のリフォームで二階に洗面所と台所を設置した。  できるだけひとりで食事するようにしているのは、佐和子とふたりで昼食をとるのが疎《うと》ましいのと、夕食にしても食欲がないのに食卓を囲み、うまい、などと世辞《せじ》のひとつもいわなければならないのが苦痛だからだ。たいていはコンビニの蕎麦《そば》やうどん、卵豆腐やサラダ、鮭《さけ》の瓶詰《びんづめ》とレトルトの白がゆで済まし、たまに鮨《すし》をテイクアウトし、週に一、二度は外食をしている。  弦一郎は私立大学を卒業して大手の食品会社に入社、六十歳で定年退職した。前例としては部長職まで勤めあげると、子会社か関連会社に再就職の世話をしてもらえるのだが、創業者の三代目が四十代の若さで社長に就任した途端《とたん》に社風が一変した。不況の波をさほどかぶらない業種であるにも拘らず、リストラというより高齢者に対するいじめがはじまったのだ。弦一郎はいまだに恨みを抱いている。弦一郎が部長だったマーケティング部を新社長が事実上|直轄《ちよつかつ》にして力を入れるようになったまでは良かったのだが、いつの間にか二十代の社員が多数を占め、弦一郎からすれば、彼らはパソコンを操作しているか、漫画本を読み漁《あさ》っているか、勤務時間中に平気で映画を観に行ったり、食べ歩きをしたりして、会社を遊び場だと勘違いしているようにしか思えなかった。会議室に小学生、女子中・高校生を集めてマーケティングを行うようになって、彼らに総スカンを食ったものはほとんどが却下《きやつか》され、かつてのような理詰《りづ》めの分析を積みあげて新商品を開発するという知的な雰囲気は見事に消えてしまった。社長が起用した無名タレントのCMが当たって、新商品の〈七味《しちみ》ライス〉が予想外にヒットしてからは、弦一郎の発言力はないも同然となり、再就職の口が決まらないまま定年退職に追い込まれた。退職金は三千四百万円で、税引後の手取りは二千九百万円、国民年金は六十五歳からだが、特別支給老齢年金を申請《しんせい》して、月額十九万円の支給を受けることができた。経済的には職を捜《さが》す必要はないものの、日増しに朝起きてすることがなにもない生活に堪え難くなり、会社関係の知人に電話して逢《あ》っては遠まわしに職を求めたのだが、半年も経たないうちに挫《くじ》けてしまった。  この世でいちばんの恐怖は、なにも起こらないことと、なにもすることがないことだ。  だれからも必要とされていないことを思い知らされた弦一郎の酒量は急速に増えた。それまでは酒席のつきあいで嗜《たしな》む程度だったし、晩酌《ばんしやく》の習慣もなかった。六十歳を過ぎると体力とともに酒量も減るのが普通なのに、最近は起床して歯を磨くまえにビールを呑んでしまうことさえある。  ベッドから起きあがり、退職ドランカーだな、とつぶやき、ひとり言が多くなった自分に気を滅入《めい》らせながら冷蔵庫を開けると、ドアポケットの白ワインが半分ほど残っていることに気づいた。四、五日まえだったか、「これ、いただきものなんですけど、すごく高いワインなんですって。おじいさんに呑んでもらおうと思って」と、まるで優勝カップの授与のように佐和子から手渡されたワインだった。ワインは赤しか呑まないが、まぁいいかとありがたく受け取った。そのあと居間におりると、佐和子がにっと笑って赤ワインが入ったグラスを額《ひたい》に翳《かざ》したのを目にして思わずカッとしたが、かろうじて自制した。紅白のワインをセットで贈られ、白のほうをお裾分《すそわ》けしてくれたまではいいとしても、グラスを額まであげて笑いかけてくる態度が許せない、いったいなんのつもりだ、義父《ぎふ》を舐《な》め切っている。タカイワインデスヨ アタシモイタダイテマスケド オジイサンモメシアガリマシタカ、とでもいいたいのか? 息子の俊一《しゆんいち》がワイングラスのフットをなか指とおや指で揺らしながら香りを嗅《か》いでいるのを見た瞬間、我慢の限界を超え、「莫迦《ばか》ッ」と怒鳴りつけた。ぎょっとして弦一郎を見た息子夫婦に、「莫迦ものだよ、あいつは」と口ごもると、「だれがですか?」俊一が眼鏡の奥の目を細めた。そういえば自分も妻も必要なかったのに、俊一は小学校のころから眼鏡をかけているのはどういうわけだと思いながら、「いや、コンビニの店員がね」と言葉を濁《にご》すと、「どうしたというんです」追い討ちをかけてきたので、「まぁいい、金持ちケンカせずだ」といい棄てて外に出た。オヤジモボケテキタナ、と息子が嘲笑《あざわら》い、ソウナノヨ コノマエモ、と嫁が応じるのが聴こえるようで腹立たしく、やはりまず、おじいさんは赤と白どちらがお好きですか、と訊《たず》ねるべきだったろうが、と怒りがこみあげて足がもつれた。  冷蔵庫からワインとジュースを取り出して机に置いた。リフォームしたとき、弦一郎は自分の部屋を書斎風《しよさいふう》にしたいと考え、大型の書棚と、三十万もするアメリカ製のデスクを買った。実際しばらくは自分でも書斎といい、息子夫婦にも孫娘の梓《あずさ》にもそう呼ばせていた。「おじいさんは?」と佐和子が訊ね、「書斎にいるんじゃない?」という孫娘の梓の声が二階まで響いてきたときなどは、あわててベッドから起きあがり椅子に座って書物をひらいたものだった。デスクはコンビニで買ってきたものを食べるためだけの食卓と化し、いまではだれも書斎と呼ばなくなったどころか、二階、という名称《めいしよう》になり果ててしまった。となりは梓の部屋なのだが、二階といえば弦一郎の部屋を指す。コップにワインを注ぎ、ジュースで割ってひと口呑み、吐《は》きそうになった。ジュースの容器を見ると、ブルーベリーミックスとある。グレープフルーツジュースだと思って買ったのに、容器にはブルーベリーとバナナとイチゴの絵が描かれている。棄てようとしたが、もうひと口|試《ため》してみると、呑めないというほどではない。弦一郎はコップにワインとジュースを注ぎ足した。  テレビではプロ野球ニュースをやっている。野球に熱中していたのは中学生のころだ。塀《へい》ぎわの魔術師というのがいたが、名前を思い出せない。青い目のエースのスタルヒン、和製ディマジオの小鶴誠《こづるまこと》、おとぼけのウーヤン、宇野光雄《うのみつお》、ジャジャ馬は青田昇《あおたのぼる》、別所毅彦《べつしよたけひこ》のニックネームは? そうだ、ベーヤンだ。たしか山内一弘《やまうちかずひろ》と中西太《なかにしふとし》の色紙を持っていたはずだが、どこに行ってしまったのだろう。試合の結果を気にしていたのは三十代まで、四十代になってもまだ社内や酒席では話題にしていた。  あれは五十を過ぎた次長のころだ、定年間際の部長に誘われて、神宮に巨人対ヤクルト戦を観に行ったことがある。 「三十代のころ、スタープレイヤーが引退すると妙にこたえなかったか? 球場を沸かせた選手が野球解説者になるんだが、子どものころから野球しかやってないからまともにしゃべれない。そのうちコーチになって、監督になる。おれが子どものころは監督はみんな、爺《じい》さんだった、わかるか?」  弦一郎には部長がなにをいいたいのかさっぱりわからなかった。 「つまりいつから老人になるかというと、野球の監督のいちばん年寄りに、ひとつ歳を足したら、と考えればいいんだ。いま最年長の監督はだれだ」 「近鉄の岡本ですか?」 「いや大洋の近藤貞雄《こんどうさだお》、六十一歳だ。だから六十二歳になったらもう老人ってことだ。おれもあと四年で老人の仲間入りだ」 「近藤はあと三年くらい監督をつづけるかもしれませんよ」  クロマティが荒木大輔《あらきだいすけ》のカーブをライトに打って、一、三塁になった。部長は手をたたきながら、「そうか、うん、あと三年はやれる。クビになりゃ、ほかの球団に行けばいい」と笑った。  いまになって思うと、部長がいったことは理にかなっていた。六十五歳はプロ野球の監督もできないほどの老いぼれだ。まぁ、どっちでもいい。  俊一が帰宅したようだ。弦一郎には、声の大きさで息子が酔っていることがわかる。  弦一郎にとって問題なのは佐和子だった。俊一と梓とは顔を合わせないで済ませられても、佐和子とは同じ屋根のしたに一日中いるのだから口をきかないわけにはいかない。同居したてのころは四十二歳の彼女には色気も恥じらいも充分にあり、ふたりきりになるとたがいに緊張したものだった。いまでもあの夏の日のことをなまなましく思い出す。  佐和子は居間のテーブルで右手を額にあててうつむいていた。 「どうしたんだ、気分でも悪いのか」弦一郎が声をかけた。 「なんでもありません」といったものの、その声には訴えかけるような響きがあった。  事情を訊《き》くと他愛のない夫婦喧嘩だったが、弦一郎は、「それは俊一が悪い、父親としてわたしからもあやまる」と慰《なぐさ》めてやった。そのあと二階に冷たい麦茶を運んできた佐和子に、「これでおいしいものでも食べなさい」と二万円を渡したときだ。ワッと泣いて抱きついてきた。ワンピースを通して乳房の感触が伝わり、肩を撫《な》でていた手を背中におろしていき、尻に軽く置くと、彼女はからだをぴくりとさせただけで離れようとはしなかった。  危なかった、といまでも思う。  それから佐和子の日常生活の挙動《きよどう》を観察しているうちに嫌悪感がベッドのしたの塵《ちり》や埃《ほこり》のように堆積《たいせき》し、ただ疎《うと》ましいだけの存在に変わっていった。もしいま全裸の佐和子が部屋に飛び込んできても、「恥を知れ! 服を着なさいッ!」と一喝《いつかつ》するだけの自信はある。ある日突然、女の精神と肉体は醜悪《しゆうあく》なものに変貌《へんぼう》するのだ。  そうだ、塀ぎわの魔術師は平山菊二《ひらやまきくじ》だった、と弦一郎が思い出したとき、ドアがノックされたので、舌打ちしてベッドのなかにもぐり込み眠ったふりをした。佐和子は機嫌がいいときはノックせずに、とん、とん、といってから、おじいさん起きてますか? とん、とん、とアニメーションのお茶目《ちやめ》な女の子のような声を出すのだが、気分によってそう使い分けていることに本人はまったく気づいていない様子なので弦一郎は呆《あき》れ果て、ノックだけのときは返事をしないことに決めている。しつこくたたきつづけるので、うるさいッ、眠っているのがわからんかッ、と怒鳴りつけたいところだが、寝返りを打ってドアに背を向けたとき、佐和子がなかに入ってきた。 「起きてるんでしょ、たぬき寝入りはやめてください」  ひと月まえに佐和子は中央区のウォーターフロントに新築された二十三階建マンションの最上階の部屋を買いたいといい出した。二戸のうち一戸は売約済みだったらしく、毎日不動産屋に連絡し、まだ売れていないことを確認しては胸を撫でおろし、この家を売却してマンションを買ってくれ、と弦一郎に迫ってきた。今日の昼も執拗《しつよう》に同意を求められ、そのうち売れるだろうとのらりくらりとかわしたが、また話を蒸し返すつもりにちがいない。しばらく様子を窺《うかが》っていた佐和子は、「そのうちおじいさんを介護《かいご》するのはあたしなんですからね。おぼえといてください」と棄て台詞《ぜりふ》を吐《は》き、テレビと電気を消して出て行った。  弦一郎は暗闇のなかで目を開け、佐和子は愚《おろ》かだが、退屈な毎日を送り生きる目的を見失っているという意味では自分と同じだと思った。妻の節子《せつこ》も、俊一と娘の直子《なおこ》に手がかからなくなってからは、空虚《くうきよ》な日々を過ごしていたのだろうか。俊一の二歳下の直子はいまでは二児の母だ。見事なほどに金の無心《むしん》か法事《ほうじ》か祝い事の折にしか顔を見せない。佐和子とソリが合わないようだが、弦一郎からすればふたりは血がつながった姉妹のようにそっくりだ。よくよく考えれば妻も同類だったのかもしれないが、もう二度と逢うことができないからだろうか、年を追うごとに自分のなかで美化されていく。なぜもっとたいせつにしてやらなかったのかと悔《く》やまれてならない。  佐和子は夜景が展望できるマンションにさえ移れば、満ち足りた暮らしを送れると思い込んで焦燥《しようそう》しているのだ。ちょうど自分が職場さえ見つかれば生きていけると考えたように。しかし問題は住居にあるのではなく、家族関係のなかにあるのだし、生きる根拠は自分がだれかに必要とされているかどうかにかかっているのだが、佐和子はそれに気づいていない。  階下から息子夫婦のとがった会話が聴こえてくる。梓がまだ帰ってきていないようだ。 「電話はなかったのか」 「あれば心配しませんよ」 「ケイタイの番号知らないのか」 「教えてくれないんですもの」 「電話料金はらってるんじゃないのか」 「はらってますよ。銀行引き落しです」 「だったら請求書か領収書があるだろ。それに番号が書いてあるはずだ」 「サスガ頭いいわね」  しばらく聞き耳を立てていたが、どうやら通話できなかったようだ。  弦一郎が自殺するしかないと思い詰めたのは二年まえだった。できれば薬物での自殺が望ましかったが、農薬や青酸カリなどはおいそれと入手できない。弦一郎はこの二年間、自殺のデータを集めることに熱中した。  平成九年の自殺者の総数は二万四千三百九十一人だった。うち五十歳以上が五十八パーセント、半数を超えている。高齢者の自殺の動機は、病苦、精神障害、家庭問題、経済的理由、の順に挙《あ》げられている。さしずめ、と弦一郎は自分の動機を捜《さが》したが、どれにもあてはまらない。統計上は、不詳《ふしよう》に分類されるのだろう。自殺の場所は自宅、海(湖)、山、高層ビル、乗り物、病院とつづく。湖で死ぬ気持ちが解《げ》せないが、ロマンティックな死に場所だとでも考えたのかもしれない。病院で自殺するのは手際《てぎわ》といおうか能率が良過ぎるのではないか。しかし常々《つねづね》病院という場所には火葬場や墓場よりもはるかに死者の気配が満ち満ちていると感じていたから、わからないでもない。  方法は、首吊《くびつ》りがトップで五十六・九パーセントを占め、その数字をイロイロオセワニナリマシタ クロウシマシタとも考えたが、ゴクロウ クルシイの語呂《ごろ》合わせでおぼえた。首吊りのあとに飛降り、入水《じゆすい》、服毒《ふくどく》、ガス使用、飛込みとつづく。首吊りは一万三千八百八十六人で、イッサイガヤヤムナシイと記憶した。  自殺がもっとも多い月は五月、雲雀《ひばり》が空高く羽ばたき、若芽《わかめ》が萌《も》え新緑がまぶしい季節に、なぜひとは発狂したり自殺したくなるのだろうか。  弦一郎は酒を呑むと食べる気力が失《う》せることから、餓死《がし》ならば容易《たやす》い気がして試みたことがある。夕方からウイスキーのウーロン茶割りを呑みつづけ、九時まえには横になり目が醒《さ》めたのは翌朝だった。ベッドに寝転んだままビールを呑むと空腹感は消え、ウイスキーに切り替えると夕食時には吐《は》き気を催《もよお》しなにも食べる気になれなかった。四日経ったときに全身がアルコール漬《づ》けにされたような不快感に支配され、手足が痺《しび》れはじめた。病気だと思い込んだ佐和子が運んでくる朝夕の食事をコンビニのビニール袋に入れて食べたように見せかけ、壁に手をついて脚を支えトイレに行って始末した。意外だったのは一週間が過ぎると、どんなに呑もうとしても一滴のアルコールも喉を通らず、ウーロン茶を口にしただけですぐさま嘔吐《おうと》することだった。死に近づいたのかもしれない、そう思った弦一郎は俊一を呼び、四国の友人一家が上京してくるから泊めてやりたい、二週間の予定だ、その間三人でホテル暮らしをしてほしい、と五十万円を手渡した。当惑する俊一を尻目に、佐和子は上機嫌でホテルを予約し、すぐさま旅行|鞄《かばん》に必要なものを詰めはじめた。  ベッドに横たわっていると、家全体が柩《ひつぎ》になったように思えた。眠っているのか起きているのかわからない朦朧《もうろう》とした状態がつづき、遂《つい》に茶色い胃液しか吐けなくなったとき、いよいよか、と弦一郎は覚悟した。  ひとりになって二日目の夜、熱砂《ねつさ》で目醒《めざ》めたような激しい喉の渇《かわ》きを覚え、這《は》って冷蔵庫を開けると、ビールしかない。栓を抜いて瓶にじかに口をつけた途端、冷蔵庫のなかに嘔吐した。よろめく足取りでコンビニに辿《たど》り着き、籠《かご》のなかにウーロン茶、ミネラルウォーター、トマトジュースを入れ、天啓《てんけい》を受けたように「漬け物!」と口走ってシバ漬け、浅漬け、ラッキョウのパックをつかんで籠に入れ、レジで支払いを済ませた。路上でミネラルウォーターをラッパ飲みし、シバ漬けを手づかみで口のなかに詰め込んで咀嚼《そしやく》しながらコンビニに戻り、うどんを買い足して帰宅した。すべてを食べ尽くしたとき、弦一郎の餓死の実験は失敗に終わった。  あとになって、人間は水分さえとれば一ヵ月は生きて行けるのだと知って、餓死は無理だと思い知ったものの、あのときに無性《むしよう》に漬け物を食べたくなったのは単にからだが欲したのか、それとも生きたいという欲望が胃を刺激したのか、どちらだろうと自問することがある。たかが漬け物ごときに負けたという情《なさ》けなさを拭うことができず、しばらくのあいだはコンビニに行っても漬け物が置いてある棚は素通りした。  弦一郎は急に寒気をおぼえて、リモコンで二十八度に設定し暖房を入れた。  やはり、首|吊《つ》りに限る。  ほとんど苦痛がなく、食事をコントロールさえすれば失禁することもないようだ。今年の春、近所の児童公園でひとりベンチに座って花見をしながら酒を呑んだ。陶然《とうぜん》としたまま家に帰ってベッドに倒れ込んだとき、いまなら首を吊ってもいい、起きあがって準備をするのが面倒なだけで、いま目の前にロープさえ吊り下がっていればその輪のなかに首をくぐらせられる、と思った。二日後にロープを買って鴨居《かもい》にかけ、ウイスキーを呷《あお》って酔いがまわるのを待った。頭が冴《さ》えわたり、眠気も、生死が渾然《こんぜん》とするような陶酔《とうすい》もなかなか訪れてくれない。ボトル一本を空にしたとき、トイレに駈《か》け込み、便器につかまって二時間かけて吐き、あまりの苦しさに死んだほうがましだと思いながら、首を吊ろうとして酔うのではなく、酔った勢いで首を吊らなければならないという教訓を得ただけで、弦一郎の試みはふたたび失敗に終わった。あきらめたわけではないが、半年以上経ってもあの陶然とした気分は訪れてくれない。  梓が帰ってきたようだ。佐和子のヒステリックな声が二階まで届いてくる。どっちにしろすぐ静かになるだろう。梓が、うるさい! と二階に駈けあがってくれば、それで終わりだ。 「何時だと思ってるんだ!」  俊一の怒声《どせい》に、弦一郎は思わず上半身を起こした。今日はえらく強気《つよき》じゃないか、莫迦《ばか》めッ、酔ってるな、と階下に耳を澄《す》ました。 「どうして門限なんか決めるの!」梓が叫んだ。 「理由がいるか! どこの家にだって門限はあるッ!」 「友だちと六人でいたんだけど、門限あっても、みんな守ってないよ」 「だから、そんな不良連中とつきあうなといってんだッ!」 「なに、不良って」 「高校生が夜中の十二時過ぎに帰るのは不良じゃないのか!」 「じゃあ、いいよ、不良でも」  ドタン、椅子が倒れた。梓が立ちあがったのだ。あの椅子はよく倒れる。 「座りなさい! 話は終わってない」  やるときはやるじゃないか、弦一郎はすこしだけ息子を見直した。 「明日から、十二時過ぎたらうちに入れないぞ」 「出てけばいいんでしょ!」 「どこ行くの! 梓! やめなさい! 梓!」佐和子の悲鳴が聴こえた。  やはり愚《おろ》かな夫婦だ、なぜ門限を守らなければならないのかを説明できない。俊一が高校生の時分も、もちろん門限はあったが、門限を破ったときに叱《しか》るのは妻の役目だった。母親が難詰《なんきつ》し、父親が黙視《もくし》することでバランスを保っていた。それにしてもなぜ門限を破ってはいけないのか、弦一郎はベッドのうえで胡座《あぐら》をかいた。女の子は危険な目に遭《あ》うから夜遊びしてはいけない、制限のなかで生きることで社会に対する適応能力を高める、まぁ、こんなところだろう。しかし梓を呼んでそう説明しても納得するわけがない。俊一はこういうべきではなかったのか。お父さんは働いて、その金でおまえを高校、大学まで進学させることを約束する。その代わりおまえはきちんと高校に通い、大学に合格できるだけの学力を身につけ、お父さんとお母さんが決めたルールを守ると約束しなさい。ついては契約書をつくるからサインしなさい。それがいやならおたがい好きにするしかない、と宣言するのだ。仮に、じゃあ好きにする、と梓に反発されたら教育は高校で打ち止めだ。大学を卒業させるまでにかかるはずの一千万は娘を失くした|慰謝料だ《いしやりよう》と思えばいいだろう。家庭でも資本主義の論理を徹底させなければならない。  梓を救出するためにセーターに首を通して階段をおりると、靴《くつ》をひっかけてドアの把手《とつて》に手をかけている梓、玄関に立ち尽くしている佐和子、居間にいる俊一の三人がいっせいに目を伏せ、弦一郎の仲裁を待った。 「コンビニに行くが、梓、なにかほしいものはあるか?」 「あたしも行く」梓が玄関に腰をおろし靴を履《は》き直した。 「話は終わってない! おじいさんもこんな時間になにを買いに行くっていうんです」 「おまえはいつから、わたしをおじいさんと呼ぶようになったんだ」弦一郎は腹に据《す》えかねていたことを口にした。 「ひとつの家にお父さんがふたりもいるのはヘンでしょう。お父さんと呼ばれたら、どっちが返事をすればいいのか、困るじゃないですか」 「わたしをお父さん、おまえをパパと呼び分ける方法だってある」弦一郎は、要はおれとの距離のとりかただということがわからないのか、と俊一のくだらない理屈につい声を荒らげた。 「パパですって? 梓にパパなんていわせたことはないし、ごめんですよ」 「パパって呼んでもいいよ、ダディとかでも」梓がくすりと笑った。 「なにがダディだ。いまさらおまえにパパなんていわれたくない」 「だったらあたし、俊一さんって呼ぼうか? 流行《はや》ってるんだよ、親を名前で呼ぶの。そうだ、おじいちゃんのこと、弦一郎さんって呼ぶのいや?」  弦一郎はそれには答えず梓の肩を軽くたたいて下駄《げた》を履いて外に出た。庭先の次郎柿《じろうがき》の樹に目がいった。そういえば子どものころはよく食べたのに、高校、大学と進むにつれあまり食べなくなり、会社勤めをするようになってからは食べた記憶がない。もしかしたら結婚したてのころは、節子が食後に出していたのかもしれない。カラスにつつかれるのがいやですから、熟《じゆく》すまえにもいでください、と節子に頼まれたことがあるような気もする。庭の空気を味わうように大きく息を吸うと、微《かす》かに、遠い記憶のなかの柿の味が蘇《よみがえ》った。 「庭の柿、食べたことあるか」歩きながら訊いた。 「あるよ、小さいころ」 「いまは果物屋で買ってるのか」 「柿なんて食べないよ」 「こんな時間までなにしてたんだ」 「友だちの誕生会。カラオケで盛りあがってるときに、ひとりだけ、じゃあ帰りますってわけにいかないでしょ」  つきあいか、サラリーマンの接待《せつたい》と同じじゃないか、弦一郎は笑い出しそうになった。 「おじいちゃん、あっ、弦一郎さんだったね」梓は立ち停まって夜空を見あげた。 「おじいちゃんでいい」 「弦一郎さんのほうが面白いよ」 「いま、なんかいおうとしたんじゃないのか?」 「どうして、晴れてるのに月が見えないの?」  見あげると、虚空《こくう》というより濁《にご》った闇がどんよりとひろがっている。子どものころは夜道を歩くと月が追いかけてくる気がして急ぎ足で逃げ、走り出したりしたものだが、もう何十年も月といっしょに歩くという感覚を忘れていた。 「冬は月の入りが早いからだろ」 「なに? 月の入りって」 「月が沈むことだ」 「ふぅん」  弦一郎は息子にも娘にも娘の子どもたちにも感じない肉親の情を孫娘の梓にだけ感じるのが不思議だった。二年まえ自殺を試みようとしたとき、法的に孫に遺産相続《いさんそうぞく》させられるかどうかは定かではなかったが、一千万を梓に遺《のこ》すと遺書に記した。俊一が梓に見せないで処理してしまう可能性を考えると口惜《くや》しく、「死んだら、遺産を残すから、かならず遺書を見せてもらいなさい」と当時中学二年生だった梓にいい含めた。梓は、「おじいちゃん、死ぬなんて考えちゃ駄目、ずっと生きててよ。遺産なんかほしくない。あたしが結婚して赤ちゃん産んで、ダッコするまでは死んじゃ駄目。ううん、それからもずっとずっと生きててよ」と涙ぐみ、弦一郎は胸が詰まって思わず抱きしめそうになった。その夜、梓に遺す額を二千万に書き換えて、いまもって相続法は調べてはいないが、机の引き出しに鍵をかけてしまってある。  愛情を金で示さなくてどうする。 「今度、洋服買ってやろう」弦一郎は先を歩く梓の背中をさするように声をかけた。 「いいよ、そんなの」梓はまっすぐまえを向いたままいった。 「ほしくないのか」 「そうでもないけど。じゃあ、いつ買ってくれる?」 「日曜はどうだ」 「いいよ」  弦一郎がくしゃみをすると、「あたし寒くないから着なよ」と梓はダッフルコートを脱いだ。  このままだと全財産を譲《ゆず》りたくなってしまうじゃないか、と弦一郎は苦笑して首を振った。 「照《て》れる歳でもないんだし」梓は笑いながらうしろにまわり込み、弦一郎の肩にコートをかけた。  こんな他愛もない優しさで生きてて良かったと思えることもあるのか、三十年以上家庭を顧《かえり》みない生きかたをした挙句《あげく》、退職後に孫娘のこころづかいに感傷的になるなんてみっともない、と弦一郎は大通りの向こうに見えるコンビニの白々とした蛍光灯《けいこうとう》の配列を眺めた。横断歩道を渡り切って思わず、「節子」と口を衝《つ》いた妻の名にぎょっとして立ち竦《すく》んだ。 「なぁに、弦一郎さん」梓が怪訝《けげん》そうな表情で振り返った。 「貝殻《かいがら》とか南の島? みたいな? チョーかわいいアクセとかシールとかほしくない?」瞳《ひとみ》はずりさがった黄色いレッグウォーマーをひきあげながらいった。黄色いショートパンツのうえに、黄緑とオレンジのラインが胸に入ったアルバの白いパーカをはおっている。 「ほしいほしい。そういうプリクラとかあったらいいね」まゆは興味なさそうに、二十分まえまで地下鉄の渋谷駅のコインロッカーに入れてあった紙袋を左手に持ち直した。  四人の少女の手には制服と学生鞄を押し込んだ紙袋が重たげにぶらさがっている。 「花音里《かおり》は、バッテリーのなかになにげにカレシとチューしてるヤツ貼《は》ってある」といって花音里はあくびを噛《か》み殺した。 「あたしは、はがして貼ってはがしてみたいな? ケイタイも汚れちゃうし、汚れ隠《かく》しのためにシールだらけって感じ? あぁ、新しいケイタイほしいな」とガードレールにぶつかりそうになった瞳は、よろめいてまゆの二の腕をつかんだ。 「別れるサイクル、マジ早すぎない? 長くて一ヵ月じゃん」まゆは瞳と腕を組んで、胸のあたりをひじでつついた。 「一ヵ月でもぉ、あたし的にはぁ、チョー長いって感じ?」 「まゆぴゃんってラブラブ歴長いよね」花音里が白いメッシュが入った茶髪を掻《か》きあげながらいった。 「マジいい男だもん」まゆはパールピンクの口紅を塗《ぬ》った白っぽい唇を自慢げにとがらせた。 「恋は盲目《もうもく》みたいな? 近眼ぐらいにしといたほうがいいんじゃない?」と瞳がまゆの胸をつかんでけたたましい笑い声をあげた。 「巨乳《きよにゆう》とか嫌いなんだって、そのくせけっこうエロエロ系なんだよねぇ。いつも逢うといきなりベラカミチューみたいな?」まゆがガムを噛むような口調でいった。  未菜《みな》は歩きながらしゃべるのが苦手だ。教室や地下鉄のなかだったらなんとか自分の場所を確保し、そのなかであいづちを打ったり会話に割り込んでいったりできるのだが、歩きながらだといつも自分だけが置いてけぼりにされる。ここでこれをいわなければ、と思ってもワンテンポもツーテンポも遅れ、そのときにはもう話題が変わっているのだ。用賀《ようが》の改札を出るまでは担任の結婚相手の話で盛りあがっていたのに、いつの間にかまゆと瞳と花音里の三人が肩を並べ、自分は彼女たちの一歩うしろを歩いている。だいたいこの道幅で四人が並んで歩くなんてできっこない。だれかが一歩まえか一歩うしろにずれなければならないし、三人だって無理がある。未菜は彼女たちの会話についていくことをあきらめ、黙っている自分にいいわけをするためと、彼女たちのだれかひとりがいつ振り返ってもいいように、最近カラオケでマスターしたばかりの「First Love」を頭のなかで口ずさんだ。三人の会話が一瞬途切れた。なにかしゃべらなければと思ったが、先に口をひらいたのは瞳だった。 「ケイタイ買って一週間で失くしたときはチョーあせりまくり? どこで落としたのかわかんないの」べつの話題に変えたというより勝手に口から出ただけだった。瞳はだれかがキャッチしてくれればいいし、無視されたとしてもかまわないと思った。 「あたしは、なぜかお風呂んなかに落としちゃうんだよね。中学んときのピッチと合わせると、もう六台|壊《こわ》した」とまゆがいった。 「やだ、カレシと電話してんでしょ。まゆぴゃん、いまお風呂はいってんのぉ、うん、はだかぁ、とかいっちゃって」花音里はまた大きなあくびをし、今度はてのひらで覆《おお》おうともしなかった。  まゆは右側の白いマンションの自動ドアをくぐり、プラダの黒のリュックのポケットからケイタイを取り出して、「これね、あたしがポコちゃんで、優くんがペコちゃんなの」と人形がついたストラップを振って見せると、人形のとなりの鍵《かぎ》をオートロックの鍵穴に差し込んでまわした。  四人が入ったのは、家具ひとつない2Kのフローリングの空室だった。所有者はまゆの父親、ひと月まえに借り手が出て行ったので、新しい契約が成立するまで自由に使っていいと鍵を与えられたのだ。仮眠《かみん》するためのクッションやブランケット、入浴するためのバスタオルや石鹸《せつけん》、シャンプー、リンス、あとはグラスやコップなどもそれぞれの家から持ってきている。 「これで良かったら、いくらでも吸ってクリ?」まゆはマルボロを一本くわえて火をつけてから、百円ライターといっしょに三人のまえにすべらせた。  いちばん最初に手を伸ばしたのは未菜で、瞳と花音里も火をつけて吸い、四人は煙に取り囲まれた。  未菜はおいしいと思ったことは一度もないのだが、吸わなければ仲間はずれになるし、いつももらってばかりで済ませるわけにはいかないので、銘柄《めいがら》をマイルドセブンスーパーライトに決めて吸っている。母が高校生になったら五千円にアップするという約束を破って、小遣《こづか》いは中学のときの三千円のままなので、一ヵ月に二箱が限界、一日二本吸うと月末に煙草《たばこ》をもらって借りをつくるしかない。別居している父親が月々振り込んでくれる二万円はケイタイ代、食事代、文房具代などで月の半ばには失くなってしまう。この二ヵ月送金がないのはどうしてだろう、大打撃だ、と思ったが、いま心配している場合ではない、と頭から振りはらった。煙草と同じで三人と話して楽しいと思ったことも一度もないのだが、彼女たちとのつきあいをやめれば、未菜の学校での居場所は失くなってしまう。高一になって一ヵ月経ったころから、ひとクラス四十人が三、四人で割られ、十ほどのグループで構成されている。もし、このグループから追放されたら、どこかに入れたとしてもパシリとして使われるだけだ。パシリを拒否したら、ひとり。学校で孤絶するのは堪《た》えられない。授業中は一応みんな黒板のほうを向いてるからなんとかなるにしても、休み時間、音楽室や体育館への移動時間、いちばん辛いのはトイレに行くときだ。みんなファンデーションやリップや香水が入ったメイクポーチを持って連れ立って行くのに、廊下《ろうか》をひとりで突っ切ることなど絶対にできない。未菜は煙をせわしなく吸い込んだ。 「ここさぁ、そのうちさぁ、借りるひとが入ってくるじゃん? そしたら、困るよね? 喫茶店とかマックとか入るお金ないし」未菜はやっとの思いで、だれもしゃべっていない隙《すき》を衝《つ》いた。 「お金ないよぉ、未菜んとこいくらだっけ?」瞳が訊《き》いた。 「三千円」未菜は、花音里が〈ミスタードーナツ〉から盗んできた灰皿で煙草の火を揉《も》み消した。 「まゆぴゃんとこは一万円なんだよね。うちは五千円。瞳ぴゃんは?」花音里は煙といっしょに言葉を吐《は》き出した。 「花音里とおんなし」  未菜はこのなかで花音里がいちばん嫌いだった。なぜふたりを、まゆぴゃん、瞳ぴゃんと呼んで、自分だけ未菜とそのまま呼ぶのだろう。明らかに差をつけている、距離をつくりあげ、ふたりにその距離を意識させているのは花音里だ。 「この部屋だれかに借りられたら、みんなでお金出しあって、どっか安い部屋借りない?」まゆがさも重大な相談事ででもあるかのように上目遣《うわめづか》いで三人を見まわした。 「だってお金ないっしょ?」瞳は箱のなかに二本しか残っていないことを目で確認すると、灰皿から比較的長い吸《す》い殻《がら》をつまみあげ、唇のあいだにはさんでいった。 「援交《えんこう》とかやる?」  数秒間、煙草の煙が四人の顔を撫で、四人とも瞬《まばた》きすらできなかった。 「あたしさぁ、ブクロ歩いてて声かけられたことあるよ」  沈黙を破って話しはじめた花音里に、未菜は疑いの眼差《まなざ》しを向けたが、さらりと自分の口から出た声は親しげにべたついていた。 「えっナンパじゃなくって?」 「三十代半ばぐらいの背広着たオヤジ。カラオケ二時間で一万円っていわれた」 「おいしいじゃん」瞳はおおげさな声を出しながら、グッチのバニティのなかからコンパクトを取り出して口紅を塗り直しはじめた。  カラオケをやるだけで一万円もらえるほど世のなか甘くない。ボックスに入ったら、なにか要求されるはずだ。一対一で二時間、防音になってるから助けを求めても聴こえないし、店員が数人しかいないボックスは渋谷にだって新宿にだって池袋にだってある、と思いながら未菜は話を逸《そ》らした。 「このまえ、電車のなかでプリクラ切ってたら、ゴミ出すんじゃないとか、うざいオヤジにいわれちゃったぁ」 「おいおいオヤジって感じ?」瞳はポケットティッシュを一枚抜き取って、唇のあいだにはさんで口紅を押さえた。  ふいに教室で煙草を吸っているような不安をおぼえた未菜は、半びらきになっているドアに目をやった。だれも入ってこないことはわかっているのだけれど、閉めないと落ち着かない。でもいま立ちあがって閉めたら変に思われるだろう、トイレ行って戻ってくるときに閉めようか、そこまでする必要はない。それに煙草の煙を逃がすためにわざとまゆが開けっぱなしにしてるのかもしれないし、と顔を戻すと、三人ともドアを閉めるか、ドアから出ていくかしたくてたまらないような表情で入口のほうを見ていた。ふたたびだれかの口から援助交際の話が出て、面白がっているうちに具体的な計画が進んでしまい、深みにはまって抜けられなくなることを恐れているのだろう。  未菜にはこのグループに援助交際ができるとは思えなかった。やってる子は、だれにも迷惑かけてないのにどうしていけないの、といっているようだが、うしろめたくないならば、親やカレシに援助交際をしているとおおっぴらに話せるはずだ。ただ、おとなはだれも気づいてくれないし、気づきたくもないだろうけれど、いちばんお金に不自由しているのは女子高校生だ。一ヵ月間普通に生活するために必要な金額を書き出してみると、五万円弱だった。小遣いとその金額の差を埋めるためにはバイトをするか、月に一枚のCDも買えないような、家と学校を往復するだけの生活を受け容《い》れなければならない。バイトはしたくないけれど遊びたいと思っている女子中・高校生にとって、援助交際は魅力的な誘惑だった。でもこのグループのなかのだれが、男から値をつけてもらえるのだろう、まゆ? 花音里? 瞳? 制服とルーズソックスさえ身につけていれば、だれでも買ってくれるというわけではない。なりゆきで盛りあがってしまい、やるしかないということになれば、ひとりだけ抜けるわけにはいかない、四人ともそれを恐れているのだ。  未菜の視線に気づいたまゆははっとして、花音里の白い貝か石がつながったアクセサリーをひっぱりながらつぶやいた。 「これ、どこで買ったの?」 「センター街のアクセショップ。九百円。ソッコー買った」花音里は自分の手に目を落とし、「いいな、瞳ぴゃんはラブラブでぇ」とマニキュアの爪《つめ》の表面を撫でながらいった。 「それが、そうでもないんだ。今週は逢《あ》ってないんだよ。電話するっていって電話こないから、こっちからもかけない」 「なんかあった?」 「元カレと逢ってるのがばれちゃってさぁ、元カレがまだあたしのこと好きみたいで、アクセとかバッグとか買ってもらったり、これもそうなんだけど」と瞳はパーカのジッパーをおろしてなかの白いタンクトップを見せた。ノーブラで乳首が透《す》けて見える。 「なんでばれた?」 「えー、わかんない。一週間まえ、アックンから突然ケイタイにかかってきて、すごい冷静に、おまえ、おれとマジつきあってんの? とかいうから、あたし勘《かん》だけはいいでしょ、ばれた、と思って黙ってたんだ。そしたら、おまえサイテーだな、とかいわれて、あたしもマジギレして、ケイタイ切ったんだけど、やっぱ好きとか思って、三十分くらいでかけたんだけど、また電話する、ってひと言で切られた」と早口で話し終えると、虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しを宙に泳がせた。  瞳の声に真剣な響きが感じられ、未菜はひやりとした。瞳は自分でなにを話しているかきちんと意識していないのだ。悩んだり困ったりしてることをギャグなしに話してはいけない。どうでもいいけれど、どうでもよくない話をだらだらとつづけなければならないのがルールで、みんなを素顔に戻らせるような話をしたらアウトだ。 「元カレとエッチしたわけじゃないんでしょ」まずい雰囲気を敏感に察知したのか、花音里が明るい声を出した。 「手ぇつないだだけ。あっ、横浜までドライブした、あっ、一回キスしたかも」瞳は素早くバターが溶けるような声で応じた。 「でもそこまでゴチになってキスぐらいしなきゃ悪いって感じだよね? カレシ、なんでそんな厳しいの? いくつだっけ?」まゆが瞳の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「同い歳」 「元カレって大学生だよね? やっぱちょっと歳上のほうがいいよねぇ」 「あたし、けっこうきてるかも。話したでしょ、アックンってシモキタの古着屋の店員で、あたしからアックンに告《こく》ってソッコーホテル行って、つぎの日に元カレとちゃんと別れたのに。あっ、話が暗くなってきてるじょお」 「花音里も暗い話するじょお。ぼーっとしてて気づかない花音里も悪いんだけど、三股《みつまた》かけられてたんだよ。このまえも女のケイタイ書いてある紙発見して、問いつめても、知らネーとかいってるからビンタしたの。そしたら逆ギレされて三発お返しされちゃった」 「でも花音里のカレシってかっこいいからいいよねぇ」 「だしょ? だから別れられないみたいな? でも、いまのロン毛って似合ってなくない? 自分ではロン毛の似合うイケメンだと思ってて、日に日にナル化してんだよ。花音里的にはむかしのケンブーに戻ってほしい」  未菜は腕時計を盗み見た。七時をまわったところだ。べつに何時に帰ってもかまわないのだが、朝食を抜いたから、今日は昼休みに売店で買ったメロンパンと牛乳だけだ。でもいいか、なんとしても冬休みまでに五キロ痩《や》せて、四十三キロになるという目標をたてているのだから。 「やっぱガングロだよねぇ。無理して美白《びはく》するのってオバサンだよ。日焼け止めクリーム塗って、日傘《ひがさ》さしてさぁ、オバサンしかやらないよみたいな? ガングロ、メッシュってカラフルな服とかチョーはまるし、顔も脚も痩せて見えるし」瞳の声には疲れが滲《にじ》んでいた。 「お金あったら、毎日|日《ひ》サロに行きたいなぁ」とまゆがぼんやりといった。 「夏になったら海でガンガン焼けるよね」と未菜は声に力を込めたが、力を込めた分すこし浮いてしまった。 「痩せないとなぁ」瞳が溜《た》め息を吐《は》いた。 「でっかいサングラスって顔小さく見えなくない? ブクロのYOUで千円で売ってた」花音里がいった。 「やっぱ、街歩いてて男に振り返られなきゃ意味ないよ。ハタチ過ぎたらジゴクだよ。あたし絶対、ハタチまえに結婚する」瞳が泡《あわ》のような笑い声をたてた。 「やっぱ服はココルルかアルバでしょ」花音里がフライパンでホットケーキをひっくりかえすように話を換えた。 「まゆ的にはエゴイスト、LSG、エスペランザがシブヤベスト3だな。いまいちばんほしいのはね、アナ・スイのシャドウとか瓶に入ってるラメ。チョーかわいいよ。今年っぽいキラキラメイクにぴったりだけど、お金ないしなぁ」 「やっぱお金! お金あったら、脂肪吸引とか豊胸《ほうきよう》とかしてカンペキボディーになって、いい男ゲットして結婚する」と瞳がいった。  そのとき、「Movin' on without you」の着《ちやく》メロが流れ、まゆは右手をリュックのなかに突っ込んで、「あれっ、さっき鍵開けたってことは、あぁ、どこ? どこだ! あぁ、切れちゃう」と捜《さが》しあてるとボタンを押し、「もしもしぃ 優くん? え? 聴こえない?」と着信音量を操作して立ちあがり、「いまなにしてんの? バイト? どこ、ぶらぶらしてんの? きなよ。みんないるけど、え? いいよいいよ」といって廊下に出てドアを閉めた。  三人に聴かせられない話をするのだ。きっと、あとどれくらいしたら友だち帰るの、と訊かれたのだろう。未菜はまゆの背中を追った視線をどこに向ければいいのか戸惑《とまど》った。  十五分ほど三人はなんのまとまりもなく理解し合おうともせず、泡立て器のように言葉をかきまわしてしゃべりまくった。やがて未菜は、瞳と花音里の顔に濃い疲労が浮かんだのを見てとると、ふたりの分まで熱中しているふりを装《よそお》って話を盛りあげるべきか、それとも減速させるべきなのか迷った。 「冬休み、旅行とかできれば最高だよね、でも、お金ないから無理だけど」花音里が投げやりな声を出した。 「まゆぴゃんが一時間以上話しつづけたらどうする?」  瞳が苛立《いらだ》ちを笑いに置き換えて、未菜のふとももをひとさし指でつついたとき、ドアを開けてまゆが入ってきた。 「さ、そろそろ帰りましょっか?」と意味ありげな笑いで唇を崩して腰をあげようとした瞳の肩にまゆが両手を置いて座らせ、「いま新大久保《しんおおくぼ》だから三十分はかかるんだよ。まだいてぇ、お願い! この部屋なんもないしぃ、ひとりで待ってんのつまんないもん」と鼻に抜けた声でいった。  瞳はまゆの膝《ひざ》上二十センチの白地に青い花柄のスリップワンピースをめくって叫んだ。 「レースでモロ見え! 気合い入ってる!」 「やっぱ勝負パンツはピンクだよ」まゆは三人のまえで百八十度に開脚して見せた。 「からだやらかぁい。さすがクラシックバレエ歴十年って感じ? でもからだやらかいとエッチんときいろんな体位とか求めらんない?」瞳が訊いた。 「さっ、そろそろ帰ろっか」花音里が立ちあがると、「やだやだ、いてぇ、お願い! ベラカミチューしてあげるぅ」とまゆにわきのしたをくすぐられ、花音里は嬌声《きようせい》をあげて四つん這《ば》いになって逃げまわった。  未菜はこの無意味で、無意味だからこそおとなの時間とはちがう、かつては青春と呼ばれたのかもしれない空虚《くうきよ》さに笑い声をあげた。  未菜が家に帰ったのは八時半を過ぎていた。居間を通り過ぎるとき、「食べてきたの?」と声をかけられたが、なにも答えず二階にあがった。母の佑子《ゆうこ》の自分に対する関心は、受験に失敗してすべり止めの愛華《あいが》学園に入ったときにあとかたもなく消え失《う》せ、いまは弟の歩《あゆむ》の中学受験にすべてのエネルギーを注いでいる。  ルーズソックスと制服を脱ぎ、パジャマ代わりにしている膝上まであるTシャツに頭をくぐらせてベッドに寝転んだ。  未菜が知る限り、女子高校生の部屋はみんなそっくりだ。男の子の部屋もきっと似ているのだろうが、それでも男の子は格闘技、アニメ、サッカー、ファミコンなど自分が趣味にしているものを部屋の中心に配置している。女の子の部屋が、自分なりに工夫してインテリアに凝《こ》ったつもりでも、ほとんど同じように飾りつけられているのは、みんなと同じにしたいという願望がこころのどこかにあるからだ。  テレビの公開録画の参加募集に葉書を出すことを趣味にしているクラスメイトがいて、中学のころから数えると四回もスタジオに行っているのだが、その子が収録の様子を面白おかしく話すのを聞いているとき、未菜はふと自分たちが棲《す》んでいる世界は巨大なスタジオみたいなものなのではないかと空想した。空想が羽ばたくと、未菜は目を開けながら白昼夢《はくちゆうむ》をみているような、ホラー映画の看板を見あげて立ち尽くしている少年のような気分になる。学校も渋谷のセンター街もセットで、そこで拍手したり笑ったり話したりすることはあらかじめ決められた演出で、どこかに隠《かく》れているADがQ出しをして、コギャルでいいんだよ、いつものコギャルで、と指示される公開録画と同じなのかもしれない。ドーランの代わりに日焼けして、ADの希望通りに茶髪にメッシュを入れる。そして演出プランに従って、何人かのコギャルがアシスタントになって、出演者のマゴギャルを指導するのだ。未菜が属しているグループのADはまゆなのだろうか? 実際に未菜は、そんなのテレビ的じゃないよ、これはバラエティなんだよ、楽しくないことはやめようよ、とADに見張られているような気がときどきする。流行《はや》りのグッズ、ファッション、CDなどもどこかからの指令で、いっせいに買いに走らされるのだ。買いなよ、なに迷ってるの? 早く買いな、というささやきが耳もとで聴こえたことはたしかにあった。いまは七味唐辛子《しちみとうがらし》なんだってば、いつも持ち歩いてさ、うどんにでもカレーにでもふりかければ、面白いほど痩《や》せるんだよ、という声が聴こえた日もあったような気がする。  未菜は四人グループでカメラのまえでポーズをとったことがある。ある日、雑誌をひらくと、同じポーズの女子高校生の写真が何組も掲載《けいさい》されていた。不思議というより、こういうポーズをとればいいという振りつけが、大勢のコギャルにインプットされているのではないかという気がして恐ろしかった。  この部屋はだれからも演出も指示もされていない、素《す》の自分でいられる唯一の場所なのに、素の自分だからこそ、台詞《せりふ》を忘れた役者が舞台上で立ち尽くすようにパニックに陥《おちい》るときがある。  未菜は読みかけの『egg』をめくったが、目に飛び込んでくる自分と同じ歳の子たちが身につけている服やアクセサリーや靴を欲しいと思いながら眺めている自分が卑《いや》しく惨《みじ》めな存在に思えて雑誌を投げ棄て、枕の横のリモコンを手にとってCDをかけた。「ここでキスして。」をバックにだれかとケイタイで話そうと思いついたが、別れたばかりの三人にかける気はしないし、ほかにケイタイで話せるような友だちはいない。このあいだクラスのだれかが、「いますぐきてってケイタイ鳴らして二十人飛んでこないようじゃ友だちいるなんていえないよね。あたしなら四十人だな」と自慢していたので、未菜は、じゃあいますぐかけてみなよ、といってやりたかった。いま、ケイタイに入っている番号の全員にかけても、きっとだれひとりきてくれないだろう。この歌を聴いていると、いつもは自分の本音を見透《みす》かされたように感じてせつなくなるほどなのだが、いまはうるさいだけに聴こえてリモコンで電源を切ると、音という音が掻《か》き消えた沈黙のなかで未菜はまっすぐ上体を起こした。  それは、突然やってきた。なにもすることがない時間が暗い穴のようにひらくのだ。いつものように穴のなかに閉じ込もって不安と焦燥《しようそう》に堪《た》え、なにかが起きるのをじっと待つしかない。一本の電話が救出してくれるかもしれないけれど、なにも起こらないという確信があるからこそ、それはやってきたのだ。手を伸ばし、ケイタイをつかんで、だれにでもいいからと思ったが指がふるえてボタンを押すことができない。なにかを起こすだけのパワーはないのだ。ふるえがおさまるのを待って、1417を押して耳に当てたが、新しいメッセージはお預かりしておりません、ご利用ありがとうございました、というアナウンスが流れただけだった。未菜は枕を両手でつかんで顔に押しつけた。  なにもすることがないのはいまに限ったことではない。学校で授業を受け、渋谷で遊び、用賀《ようが》のマンションに行ったけれど、今日の行動のすべてがほんとうはしなくても良かったというより、なにもしなかったことと同じだ。未菜とそれらの場所とのあいだには絶えず透《す》き間《ま》があった。現実とのあいだに一ミリでも透き間ができれば、一万キロ離れているのと変わらない。もしかしたらコギャルたち全員が現実と一ミリずれていて、必死でその一ミリずれた場所で独自の世界を創ろうとあがいているのかもしれない。二十歳になるまで、蜃気楼《しんきろう》のような数年間であったとしても、なにかをしているという気にさえなれたらそれでいい。その世界は砂漠のオアシスのような幻覚《げんかく》なのかもしれないけれど、ずれてしまった現実に身を置いているよりはマシなのだ。  ある日ひとりの女子高校生がコギャルになった。そして何人か、何百人かが彼女を真似ると、メディアや彼女たちに商品を売りつけようと企《たくら》む商人たちが噂を聞きつけ、大がかりなプロモーションを展開し、女子中・高校生が蝟集《いしゆう》してコギャルの世界が生まれた。最初のコギャルはどんなひとだったのだろう、と未菜は思う。きっといまは主婦かOLになっていて、自分が元祖だったことに気づかないで普通の暮らしをしているにちがいない。  未菜はコギャルの世界からもずれてしまった。いま目のまえにあるこの暗い穴こそ現実なのだと薄々《うすうす》気づいてはいても、どうしたら現実との透き間を埋められるのかがわからなかった。蜃気楼のなかから抜け出し現実を生きるためには、なにをしたいのか、なにをすればいいのかを考えなければいけないということだけはわかっていたが、考えたらきっと疵《きず》を負う、と未菜は考えることが恐ろしかった。考えるより、待つほうがいい。  先月の誕生日にまゆからもらったピーチの香りのバスソルトを入れて湯に浸《つ》かれば気分が楽になる気がするけれど、母と顔を合わせたくない。未菜は時計を見た。九時半、そろそろ歩《あゆむ》を駅に迎えに行く。車のエンジンの音がしたらしたにおりよう。でも、十五分で帰ってくるから風呂から出るときに顔を合わせる。歩が夜食を食べ終えて風呂に入り、二階にあがってからにしよう。どうせぜんぜん眠くない。そうだ、手紙を書こう。学校では手紙のやりとりが流行《はや》っていて、朝渡すとたいていその日の授業中に返事がまわってくる。未菜はまるで自分の命が手紙を書けるかどうかにかかっているかのようにからだじゅうの力を集めて立ちあがった。脚《あし》ががくがくする。壁に手をつきながらなんとか机のまえに辿《たど》り着き、レターセットをつかんでベッドに戻ると、鞄からキキララのペンケースを取り出し、うつぶせの姿勢で枕を胸に当てて、だれか、自分をわかってくれるだれかに手紙を書こうとしたが、だれもいない。頭のなかで言葉がどもり一字も書けない。それでも書かなければならないのだ。返事が欲しい!  幸福はいつも手紙で訪れる。ケイタイからではなく、ポストのなかや、手渡しで。  テレビを観ていた佐和子が、背広に黒のハーフコートを身につけた弦一郎を見て、「あら、お出かけですか」と立ちあがった。弦一郎が顎《あご》を引いただけでなにもいわずに玄関に向かうと、「どちらにお出かけになるんですか?」と声をかけてきたので、「ちょっと」といつもの通りにいった。答えないことを知っているのに無駄なことを訊く、つぎになにをいうのかもわかっているくせに。 「遅くはならない」と玄関を出た。  近所の庭の梅や花水木《はなみずき》や辛夷《こぶし》が色づき、金木犀《きんもくせい》の香りとともに秋の気配が住宅街に立ち込めている。東京には緑が少ないというのは都心のビル街や繁華街だけのことで、一戸建の家ではピラカンサやベニカナメなどの垣根《かきね》をめぐらし、狭い庭であっても、それぞれ工夫を凝《こ》らして緑を植えている。庭がない家でも山茶花《さざんか》や萩《はぎ》の植木鉢を玄関の脇や出窓に置いて季節を取り入れている。入居したばかりのころは、どの家族も幸福感に包まれていたのだろうが、時が経つにつれなんらかの罅《ひび》が入って、夫婦仲は冷《さ》めきり、自分たちが思い描いていた像とはほど遠い子どもの世話に嫌気がさしているにちがいない。弦一郎の家は近所では仲の良い一家だと思われているのだろう。弦一郎は近隣《きんりん》の家を値踏《ねぶ》みするように眺めた。荒れた庭の家は、その一家のだれかが思い通りにならない現実に幻滅《げんめつ》し、あらゆるところに陥穽《かんせい》が仕組まれていると思い込み、自殺や犯罪を企《くわだ》てているのではないか。それにしても、なぜこんなに静まり返っているのだろう。むかしは通りを歩くと、赤ん坊の泣き声や子どもたちの喚声《かんせい》、ラジオの音や主婦たちの立ち話が聴こえたものだ。  弦一郎はアーケードの理髪店のまえを通り過ぎた。退職以来、自分で整髪するようにしている。在職中はエスカレーターで下降《かこう》するたびに、うしろのひとの視線が貼《は》りついているのではないかと疑うほど薄《うす》くなった髪を意識していた。週刊誌で専門家が頭頂部《とうちようぶ》には効果があると太鼓判《たいこばん》を押した〈ロゲイン〉を、信頼していた部下に頼んでインターネットで購入したことがある。一年間は毎日頭にふりかけてこすりつけ、一ヵ月ごとにポラロイドで記録しつづけたのだが、いっこうに発毛する気配を見せなかった。通信販売で「特殊加工された人工毛」という触れ込みの商品を取り寄せたこともある。砂鉄のような黒い粉末を頭部にふりかけて、スーパーミリオンヘアミストなるものをスプレーするという方式だったが、妻に、なんだか黒マジックで塗ったみたいですよ、と笑われて、あまりの莫迦《ばか》らしさにいっしょに笑うしかなかった。  レンタルビデオショップに近づくと、かならず脚にむず痒《がゆ》さをおぼえて速度が鈍《にぶ》る。〈MEDIA SPACE〉という店名よりも、〈CD AV LAND〉というネオンサインのほうが大きい。弦一郎は一度だけ店内に入ったが、どうしてもAVのコーナーには足を向けられなかった。週刊誌のグラビアのヘアヌードにさえ刺激を受けるのだから、AVを観ればきっとマスターベーションできる。三十、四十代がAVを借りてもだれもなんとも思わないだろうが、六十代の男がAVを求めれば、だれもが穢《けが》らわしいものを見るような目つきをするはずだ。だれもそう思わないとしても、弦一郎自身が恥ずべき行為だと考えている。出張先のホテルで観たAVは、汚らしいという思いが先に立ってすぐにチャンネルを変えた。弦一郎は渋面《じゆうめん》を拵《こしら》えてビデオショップのまえを通り過ぎた。性風俗店には足を踏み入れたこともない。年に数回はその手の店に通っているという同僚から何度か誘われたのだが、その気にはなれなかった。だからといって浮気をしなかったわけではない。四十代のころ若い部下と二年つづき、彼女にボーイフレンドができたためになんの揉《も》め事もなく別れた。五十歳になったばかりのころ、人材派遣会社から会社のイベントを手伝いにきた二十六歳の女の子ともつきあった。逢うたびに二、三万渡していたから、いまでいう援助交際といえなくもないが、四年つづき、さすがに深みにはまったと後悔して、若い社員の合コンに参加するようにすすめたら、そこで知り合った社員の友人とあっさり結婚して、いまでは専業主婦になっている。以来女性と知り合うチャンスは一度も訪れなかったし、不能になったのではないかと疑うほど性的関心も薄れたのだが、退職してなにもすることがなくなった途端に性欲だけは強まった。なぜだろう、とだれかに訊いてみたいが、そんな友人はいない。世間というのは老人の性欲にあまりにも無関心で、性欲は歳とともに消え去ると頭から決め込んでいる。息子夫婦は同じ屋根のしたに棲《す》んでいる六十五歳の男が、自分たちと同程度に欲情しているなどとは思いもしないだろう。六十歳以上と十四歳以下の性は社会の闇に隠蔽《いんぺい》され、タブー視されているのだ。そこまで考えたとき、地下鉄の方南町《ほうなんちよう》の駅に着いた。新宿に行くには丸ノ内線で中野坂上《なかのさかうえ》まで行き、池袋方面行きに乗り換えなければならない、とわかり切ったことを頭のなかで確認しながら背広の内ポケットから財布を取り出した。  東口の改札を通り抜けた弦一郎は、新宿に出たときはかならず寄る三越《みつこし》裏の蕎麦《そば》屋に入った。  ざる蕎麦と冷酒《れいしゆ》を注文した。月に一度はこの店にきて同じものを注文しているが、店員もレジを打つ女将《おかみ》らしき女も、常連とはいかないまでも顔見知りになっているはずなのに、馴《な》れ馴《な》れしい態度を見せないのが弦一郎には好ましかった。オジイサン キョウハドチラデスカ、などと声をかけられたら二度とくる気にはなれない。  十二時まえのせいか、客はひと組の老夫婦だけだった。見たところ、七十は超えている。弦一郎は電車や店のなかで自分より歳をとっているひとを見かけると、浅はかな優越感だとわかってはいても満足する。世の中には自分より歳上の人間など何人もいるのだから、この陰気《いんき》な楽しみはいつまでも持続できるというわけだ。しかし百歳以上の老人が出演するテレビ番組を観て思ったのだが、百歳を超えるとそれが逆転し、自分より歳下の老人に優越を感じているようだ。  若ければ価値があるという風潮《ふうちよう》を決定的にしたのは、一九八〇年代後半にパソコンが企業に導入されたあたりからだろう。それと不況の波が高まるにつれ、たいていのものは既《すで》に所有してしまっている高齢者は消費者ではないと切り棄てられてしまった。弦一郎はバブルが崩壊《ほうかい》した途端、ほんとうに欲しいものがなにもないことに気づいて愕然《がくぜん》とした。  テレビで〈近未来介護《きんみらいかいご》グッズ〉という特集を観たが、弦一郎が立腹《りつぷく》したのは、自分では食事ができない手足が不自由な老人のために〈マイスプーン〉というハイテクを駆使した自動食事機の商品化に成功したという話だった。老人が卵焼きに目を向けると、センサーが感知し食事支援ロボットがスプーンで卵焼きをよそって口まで運ぶ。大量生産されれば安価で売り出される可能性もあるが、現在の価格は数百万円だと報じられていた。そもそも老人の食事の世話を家族やホームヘルパーの手ではなく機械に代行させるという発想がいやらしい、気違い沙汰《ざた》だ。そのうち〈ウンチクン〉などという名前の自動|排泄《はいせつ》処理機も開発されるだろう。待てよ、マイスプーンにはたいした需要があるとは思えないが、ウンチクンならだれだって欲しいはずだ。仮に百万円程度で商品化できれば、爆発的にヒットするのではないか、と弦一郎はコップの底に残った酒を呑み干し、もう一杯頼もうと店員に手をあげたが思いとどまって、「蕎麦湯《そばゆ》」といった。何年かぶりにアドレナリンが噴出しているのかめまぐるしくアイデアが浮かび、いても立ってもいられなくなって伝票をつかんだ。  ウンチクンは良くない、マイウォシュレット、マイトイレット、しかしこれではマイスプーンの二番煎《にばんせん》じだ。キャッチフレーズは「おむつよ、さようなら」でいけるかもしれない、いや、やはりプロに頼んだほうがいい、と在職中に使った二、三人のコピーライターの名前を思い出し、社員を引き抜いて新しい会社をつくる手もあるぞ、と弦一郎はパニックになるほどのアイデアで渦巻いている頭を振りながら靖国《やすくに》通りをせかせかと歩いた。  弦一郎の外出の目的は月に一度のビタミン剤《ざい》を買うためだった。自殺を考えてはいてもビタミン剤への執着は消えない。俊一と佐和子がなにかの用事で部屋にくると、機嫌がいいときは、「ビタミンやってくかね」とすすめているのだが、ふたりともまず断らない。からだの調子を訊いて、「お膚《はだ》が乾燥しがちで」と佐和子がいうとAを与え、「生殖機能《せいしよくきのう》が減退気味なんじゃないか」と笑いながら俊一にEを渡したこともある。  薬局に入り、ビタミンCとB1とEの瓶をレジ台に置いた。 「ある大手製薬会社がね、ビタミンEをとり過ぎると癌《がん》になるといってるみたいだけど、ほんとかね?」 「まさか! そんな話聞いたことありませんよ、どこの会社ですか?」  薬剤師《やくざいし》は目を丸くし、弦一郎はその製薬会社の名を告げた。 「へぇ、あそこがねぇ、トコフェロールに発癌性《はつがんせい》があるなんて初耳ですよ。うちでも取り引きしてるから、今度たしかめときます」薬剤師は弦一郎にレシートと釣りを手渡して頭を下げた。  薬局を出ると、自動排泄処理機開発の熱はいくぶん薄らいだものの、どうせ暇《ひま》なのだからアイデアを練《ね》るぐらいはしてみてもいい、まだ一時まえだからあと三時間は潰《つぶ》さなければ佐和子の手前、格好がつかない。映画館でうつらうつらする気にもなれない弦一郎は、落ち着ける場所はどこかと思案した。若いころからひとりで喫茶店に入れないのは、ウエイトレスの視線を気にしながら座っていられる時間はせいぜいもって二十分だからだ。老人がひとりで過ごせる場所は公園ぐらいしかないのか、と思ったとき、ふいに井草森《いぐさもり》公園に行ってみる気になった。二年まえに佐和子から、井草森公園の半径三百メートル以内に棲《す》んでいる住人たちが目の翳《かすみ》や咳《せき》、呼吸困難などの症状を訴えているという話を聴かされた。当初、原因は近くにある清掃局のゴミ中継所だと考えられたが、ほかのゴミ中継所のそばの住人には症状が出ていないのだから、とその説は留保《りゆうほ》された。近くの住人四十世帯が転居したと噂され、遂に原因不明の杉並病《すぎなみびよう》と名づけられた。それを耳にした弦一郎は、よし、杉並病、けっこうじゃないか、と公園に出かけようとしたが、方南町からは行きかたが難しく面倒になって途中で引き返したのだ。新宿からだと西武新宿線で一本だ。弦一郎は西口に向かって歩き出した。  井草森公園は想像していたよりはるかにひろく、りっぱに造成されていた。杉並病を恐れてひとっ子ひとりいない荒涼《こうりよう》とした公園を思い描いていた弦一郎は、裏切られたような気分になっているのもおかしなものだと思いながら、池のほとりで足を停めて水面に視線を漂わせた。 「ここはもともと防災用池でしてね、魚がいるはずはないんだが、ほらメダカ、鮒《ふな》、金魚、あっちに鯉《こい》なんてのもいる。近所の人間が夜棄てにくるからでね、どういうわけかね、犬猫じゃあるまいし、わからんね。観賞用の魚を棄てちまうってのがどうにもわからない。あんたわかるかい?」  振り返ると、一見してカマキリを思い起こさせるほど痩せ細り、九十歳は超えていると推測しても無礼ではないような皺《しわ》と老斑《ろうはん》だらけの顔があった。グレーの厚手のオーバーにマフラーと手袋までして、まだ十一月になったばかりだというのに真冬の出《い》で立ちだった。 「さぁ、どうですか、引っ越しするときに持て余して棄てるってケースは考えられますね」 「なるほど、それは思いつかなかった」  老人は空気が抜けるような笑い声をたてた。歯が三本しか残っていないようだったが、話が聞き取れないというわけではない。 「あの水鳥《みずどり》は?」 「あれがオナガガモ。あっちのがカルガモ。ほら、黒くて長い尻尾《しつぽ》を上下に揺らしてる、あの顔が白いのがハクセキレイだ。水鳥がどうして用水池にいるか、わかるかね?」 「さぁ」 「わからんから訊《き》いてみたんだが、公園の管理事務所でも、区役所の環境保全課でもわからん。でだね、日本野鳥の会に電話したらどうかとすすめられて問い合わせたが、やっぱりわからん。オナガガモは何月にここにくると思うかね?」  弦一郎は、さぁ、と首をひねり、老人にとってはこの三十坪ほどの池が世界なのだと思った。ここで起きているさまざまな変化、棄てられた鯉や金魚、水面に浮かぶ病葉《わくらば》さえもが、老人の生に刺激を与えているのだ。生の意味はなにも普遍的である必要などなく、この老人は自らの生を池に映し出すしかないのだ。世界は閉じられ、老人に残されたのは小さな池だけなのかもしれない。 「オナガガモは十月ごろに北米大陸やユーラシア大陸から渡ってきて、翌年の四月まで越冬《えつとう》してですな、それからなんと、もといた場所に帰って行くらしいですよ。ハクセキレイも同じようなもんでね、途方《とほう》もない連中だ、途方もない。ところでユーラシア大陸ってどこかな?」 「アジアとヨーロッパですね」  老人は世界地図を思い描いているのか、水面に目を凝《こ》らして黙り込んだ。  ゆっくりと池を離れた弦一郎は広場のほうへ向かい、ベンチに腰をおろした。近くにグラウンドがあるのだろう、少年たちの喚声《かんせい》が聴こえる、おそらくサッカーだ、野球ではない。かなりの樹が植わっているが、弦一郎に名前がわかるのは桜、樫《かし》、銀杏《いちよう》、楓《かえで》くらいだった。鳥の囀《さえず》りに耳を澄まし、椋鳥《むくどり》の声だけは聴きわけることができた。  マイトイレットへの意欲は次第に覚束《おぼつか》ないものになっていった。リタイアした身分なのに、いまだに仕事に執着している自分が情《なさ》けなく憐《あわ》れなだけの存在に思える。惨《みじ》めなのは再就職できないことではなく、仕事に就《つ》くことに固執《こしつ》している自分自身なのだ。腕時計を見ると、まだ三時過ぎだったが帰ることにした。 「あら、ずいぶん早かったんですね」佐和子がからかうような笑みを浮かべた。  弦一郎は最近は滅多《めつた》に座らない食卓の椅子に腰をおろした。佐和子は訝《いぶか》しげに弦一郎の様子を窺《うかが》ってテレビを消し、「お茶でもいれましょうか」と台所に行った。よく一日中テレビを観ていて飽きないものだ、と弦一郎は思うが、ひとつだけ感心しているのは、主婦同士で食べ歩きだの旅行だのに出かけようとはせず、いつも電話口で言葉を濁《にご》し、しまいには、「やっぱりよすわ、ごめんなさい」と断ることだった。ろくすっぽ料理もつくれないくせに一流レストランでランチを食べ、笑い興《きよう》じている中年女ほど醜《みにく》いものはこの世にない。弦一郎は玄関で靴を脱いだときから、早く帰宅した弁解などしないで佐和子をからかってやろうと決めていた。 「今日、ひさしぶりに大学時代の後輩に逢《あ》ってね、高橋というんだが、転職して老人介護用品の会社に勤めてるんだ」弦一郎は茶をひと口飲んで一気にいった。 「まぁ、リストラですか」 「ちがう、転職だ」 「だからリストラされて」 「自ら進んでだ」 「それで介護用品を売りつけられたんですね。なに買わされたんです?」 「そうじゃない、今度独立するという話だ」 「やっぱりリストラですね」 「話をよく聞きなさい。あなたはなにかといえばリストラ、リストラとひとつおぼえのようにいう。危ないのか、俊一のところ」 「まさか! ひと聞きの悪いこといわないでください。日本たばこ産業ですよ、主人はだいじょうぶです」 「いまどき危なくない会社なんてあるものか。アメリカみたいに煙草のせいで肺癌《はいがん》になっただのなんだのって訴訟沙汰《そしようざた》にでもなってみろ、どうなるかわからんぞ」弦一郎は茶を啜《すす》ってなんとか気持ちを落ち着かせ、「ビタミンやるか?」と優しくいうと、佐和子はこっくりとうなずいた。 「あなたにはEがいいね。血液の循環《じゆんかん》をよくするし、ホルモンのバランスにもいい」  弦一郎がパッケージを開けて蓋《ふた》をまわすと、佐和子は両のてのひらを水をすくうようなかたちにして突き出した。両手で受け取るほどでもない、弦一郎は瓶《びん》の口から三粒つまみ出してのひらに落としてやった。佐和子が口に含んで湯飲みに手を伸ばしたので、「なんだ、水で飲みなさい」というと、素直に立ちあがって水道水をコップに注いで飲んだ。 「よし、それで血のめぐりがよくなる。さっき話したが、高橋が素晴らしい商品を考案したんだ。大ヒット間違いなしだから、ベンチャー企業を興《おこ》すってわけだ」 「あら、お元気なかたですね」 「それはな、老人の排泄《はいせつ》をハイテクの機械が処理するという画期的な商品だ。どうかね? あなたが寝たきり老人を介護しなければならないとしたらほしいと思わんか?」 「早すぎませんか?」 「なにがだ」 「おじいさん、いえ、お義父《とう》さんをわたしが」佐和子は照れてうつむいた。  佐和子はいま糞尿《ふんによう》の処理をしている自分の姿、舅《しゆうと》の尻を想像しているのだ、弦一郎は気分が悪くなりぴしゃりといった。 「莫迦《ばか》ッ! わたしがあんたの介護を受けるなんてことは金輪際《こんりんざい》ないッ!」 「でも、そんなことわかりませんよ。いまはお元気でも、ボケって突然はじまるっていうじゃありませんか。下《しも》のお世話はわたしが責任を持ちます、約束します。だからこの家売ってマンション買ってください。お義父さんの名義でいいんです」 「わたしはあんたの介護を受けなければならなくなるまえに、死ぬよ。それよりどうだ、ほしいか?」 「そりゃ、あれば便利ですよ」佐和子はふくれっ面でそっぽを向いた。 「共同経営しないかと誘われたんだ」 「サギ! それはサギですよ。そういう話は千に九百九十七はサギで、お金をむしりとられるだけなんです! やめてくださいッ!」佐和子が金切《かなき》り声をあげた。 「どうしてそう決めつけるんだ。わたしの親友なんだよ」弦一郎は悠然《ゆうぜん》と構えて椅子の背に寄りかかった。 「わかりますよ、ワイドショー観れば! コメンテーターが口をそろえていってますよ、儲《もう》け話はサギだって!」 「買い物の時間だね。話を聞いてくれてありがとう」  弦一郎は勝ち誇《ほこ》った気分と、相談したのが間違いだったという腹立たしさを踏みしめて階段をあがった。  章三《しようぞう》は立ちあがって、閉まったドアの音に背を押されてまえに進み出た未菜を、「長女だ」と三人の社員に紹介し、「昼メシまだだろ」未菜の脇を通り、閉まったばかりのドアを開けて外に出た。  歳月が染みついたのだろうか、未菜の視界にある道路もビルも、よく見ればところどころに褐色《かつしよく》やブルーが残っているのだけれど、街全体が黒ずんだ灰色に塗り込められている。街に溶け込みたがってでもいるかのように灰色のコートを着てまえを歩いているこの男は三十年間もここで生きてきたのだ。  母から聞いた話の断片をつなぎ合わせると、高校を中退した父は、母方の祖父が経営していた冷暖房機製造の下請《したう》け会社で働くようになって、祖父の強い要望で母と結婚し、母にいわせれば、八年まえに祖父が他界すると待ってましたとばかりに会社を継いで、愛人と暮らすために家を飛び出したということだった。  子どものころ遊びにきたときは、事務所にも隣接する工場にも大勢の社員がいたような気がする。油染《あぶらじ》みたランニング姿の工員から板チョコやアイスキャンディーをもらった記憶がある。あれはたしか夏の昼休みだった。彼らはよく笑い、工場のまえの木の長椅子に座ってうまそうに弁当を食べたあとでキャッチボールをしていた。  未菜が章三の会社を訪れたのは十年ぶりだった。向かい風が強く、凍った砂塵《さじん》のような埃《ほこり》が未菜の顔にもミニスカートのなかにも吹きつけてくる。  章三は定食屋のドアを開け、未菜はあとからなかに入った。カウンターとテーブルがふたつ、客はひとりもいなかった。 「なに食べる」と章三はテーブルにつくと、ズボンからハンカチを取り出して眼鏡を拭きはじめた。  壁にメニューを書いた紙が貼ってあったが、未菜には白い短冊《たんざく》が汚れているようにしか見えなかった。 「生姜《しようが》焼きでいいな。生姜焼き定食ふたつ」章三は眼鏡をかけると同時にカウンターのなかの年老いた女に注文した。  女は無愛想な顔をあげてカウンターに並んでいるコップをふたつ手にとると、蛇口《じやぐち》をひねって水を注ぎ入れ、テーブルのうえに置いた。  コップを手にとって口をつけようとしたとき、化学の授業中|顕微鏡《けんびきよう》で見た菌のような小さな白いものが浮いているのに気づき、汚い、よく洗ってない、と未菜はコップを置いた。章三はごくごくと喉を鳴らして飲み、「いらないならもらうよ」と未菜の水まで飲み干した。豚肉をフライパンで炒《いた》めている音がしている。食べながらのほうが話しやすいけれど、先に話してしまおうと背筋を伸ばしたとき、章三が神経質な咳をして未菜の顔を見た。 「学校はうまくやってるか」 「まぁ」 「お母さんはどうだ」 「まぁまぁじゃない」 「歩《あゆむ》は元気か」 「まぁ」 「そうか」  未菜が、まぁ、で済ませるのは母にも教師にもそうだし、よく考えてみればたいていのおとなにそう答えている。もしこの男に洗いざらいほんとうのことを話したら、どう反応するだろう。でも、おとなはプライドがないし、この男は無関心だから、そうか、まぁ、がんばるんだな、くらいの言葉しか返ってこないだろう。未菜はラメ入りのピンクのマニキュアの爪《つめ》を見せびらかすように空のコップを弾《はじ》いて音をたてた。 「今月の振り込みなかった」未菜は携《たずさ》えてきた言葉を口にした。 「生活費は入れた」 「あたしの通帳には振り込まれてない」  章三は財布のなかから二万円を取り出し、未菜は受け取って鶴を折るように小さくたたんだ。 「もうひと月分なんだけど」 「いまはない」章三は頭痛をはらい落とそうとするかのように片手で額をこすって苦しげにつぶやいた。 「いつだったらあるの? あるとき取りにくるから。いま決めたいんだ」 「いつはらえるか約束できないな」  つぎにくる言葉を待ち受けたが、章三はキャベツの千切りにソースをかけて箸《はし》でつまみ、口をいっぱいにした。未菜は、どうして、という問いを押し殺して割り箸を割り、豚の生姜焼きを口のなかに入れた。 「不況だということはわかってると思うけど、うちの会社も火の車で、貸し渋りって聞いたことあるか?」  箸と口を休めずひと言ひと言|吟味《ぎんみ》しながら慎重に話している。話を進めているのに一歩一歩|退《ひ》いているような奇妙な話しかただった。 「くわしいことを話しても未菜にはわからないと思うけど、銀行が金を貸してくれない。給料は二ヵ月も遅配《ちはい》。もうお手あげだな」  未菜は顎《あご》をあげて、章三の頭越しに宙を見詰めた。 「倒産するしかない」  近くで爆弾が炸裂《さくれつ》しても、目の前のテーブルの汚れのほうが気になるとでもいうように、未菜はポケットティッシュを取り出して、章三が食べこぼした生姜焼きの汁を拭き取った。倒産、最近よく耳にするような気もするがなんの実感も湧《わ》いてこない。母が、「事務所と工場の土地は三百|坪《つぼ》あるから、最低でも三億よ。離婚したら返してもらうの。わたしの遺産なんだから」とくりかえしいっていたのを思い出したが、それならばなぜ離婚しないで別居しているのか、未菜には不思議でならなかった。金利を計算するとどうのこうのという話は耳を素通りして、「歩が大学を卒業したらどんなことがあっても離婚届に判を捺《お》してやる」といったことだけははっきりとおぼえている。倒産して離婚したら、工場の土地は母のものになるのかどうか訊いてみたい気もしたが、難しそうだし説明されてもわからないにちがいない。ふたりの問題だ、と未菜は割り箸を皿のうえに置いた。 「ハタチまで毎月二万円振り込むって約束は?」未菜は父親を正面から見据えた。  落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》、眼鏡のうしろの小さな目が脅《おび》えている。 「いざとなったら自殺すればいい。一億くらいの金は遺《のこ》すさ。未菜は将来どうするつもりなんだ。大学に行くのか」章三は唐突に明るい声を出した。 「だって倒産するんでしょ」 「金は遺すといっただろ」  羽振《はぶ》りが良かったころの自信たっぷりの口調だが、頬《ほお》はぴくぴくと痙攣《けいれん》している。未菜は軽蔑《けいべつ》と憐《あわ》れみと憎悪が入り混じった感情を持て余し難破船のように揺れながら、自殺なんてできるわけがない、こんな男にできるなら、とっくのむかしにこっちが自殺してる、と叫びそうになった。中学二年のとき何度もビルの屋上に立ったけれど、身を投げることはできなかった。火をつけなければ燃えないように、死にたいという思いだけでは、死ぬことなんてできない。もしこの男に、家族に対する愛情がすこしでも残っているなら、プライドがあるなら、自殺できるはずだ、でも、おまえには自殺できない! 「いまにわかるさ」章三は薄っぺらな笑い声をたてた。 「じゃあ死んでみろ! いま、そのへんのビルから飛び降りろ! ざけんじゃねえよ! いま死ねよ! できないなら、あたしが突き飛ばしてやる!」未菜はテーブルをひっくりかえして外に飛び出した。  駅に向かっているはずなのにどこを歩いているかわからない。怒りが螺旋《らせん》状に神経に巻きつき、あまりにも固くしめあげてくるので泣かなければほどけそうになかった。未菜は思い切り泣ける場所を捜して歩いた。品川《しながわ》には海があるはずなのに、どちらに行けば海に辿《たど》り着けるのか、未菜は汗といっしょに涙が流れているということに気づかず早足で歩き、路地に迷い込んだ。古い崩れそうな日本家屋のまえの日向《ひなた》で、老いた斑猫《ぶちねこ》がゆったりと寝そべっているのを目にしたとき、未菜は声をあげて泣き、しゃがみ込んだ。壊れてしまった。急に現実との透《す》き間《ま》が埋まり、現実が皮膚《ひふ》のようにからだに貼《は》りついている感覚、その気持ち悪さと、あぁ、やっぱりここに還《かえ》ってきたのだという安心感が未菜を揺《ゆ》さぶった。猫になろう、高いところから突き落とされても、くるりと着地する猫になろう、でももうすこしだけ泣いていたい。  ケイタイが鳴った。去年から替えていない「がんばりましょう」の着メロがあまりにも場違いで、取るのはやめようと思ったが、ケイタイをつかんだ拳《こぶし》で涙を拭って、鼻を啜《すす》ってからボタンを押して耳にあてた。 「これからこない? 相談があるんだけど」まゆだった。 「いいよ。いま品川だから一時間くらいかかるかもしれないけど」手の甲にマスカラがついている。品川駅のトイレで化粧を直さなければ、と思いながら未菜は立ちあがって歩き出した。  ブザーを押すと、まゆが飛び出てきた。未菜はローファーを脱いで部屋にあがった。  いつもの通り瞳と花音里が煙草《たばこ》を吸っている。 「ねぇ、筋肉きたえると小顔《こがお》になるって知ってた? こうやって口とがらせたり、上下左右に思いっ切り動かしたり」瞳が口を動かして見せた。 「それって、よく雑誌とかに出てるよねぇ、女優とかが朝晩やってますとかいって」未菜は会話に入ることができてほっとした。 「筋トレとかすればマジ痩《や》せるってわかってるんだけど、花音里は腕立ても腹筋も一回もできないしぃ、輪ゴムつなげてヒモ状にしてね、つないだ輪ゴムを両手で持って腕をグイーンとあげる? ゆっくり息吐きながらゴムをすこしずつ伸ばして、十五回くらい? けっこうくるよ、二の腕に」花音里が腕をあげて見せた。 「でも輪ゴム切れたら、チョー痛ソ」とまゆは花音里に面白がっている表情を見せてから、ダイエット特集の記事で話をつなげた。「けっこうあなどれないのが風船ふき? 背ぇ伸ばして、鼻から息吸って、下っぱらふくらませて、一気に風船ふく。ふきながら、下っぱらへこませるようにする。これマジ下っぱらにくる。来年の夏までに目指せウエスト五十三センチだもん」  未菜は目の隅《すみ》でまゆを見た。ファンデにむらがある、眉も左右対称じゃない、まゆにしては珍しい投げやりなメイクだ。 「お姉ちゃんがインターネットで収集した情報なんだけどね、バンソコおなかに貼るだけで痩せるんだって」と瞳がいった。 「マジ?」花音里がマスカラでダマになっているまつ毛でおおげさな瞬《まばた》きをした。 「おへそのね、指四本分しただって。ツボとかがあるみたい。五キロ減ったっていってたらしいよ、ネットの女が。バンソコは一日一回新しいのと交換するんだって」 「でもさ、エッチんとき、あと残ってたら、引かれるよね」まゆの目は完全に虚《うつ》ろだ。  未菜には、まゆがゲームからおりたいのにしかたなくカードを切っているように見え、いったいどうしたのだろうと訝《いぶか》った。いつもなら、だれかが飽きればすぐにつぎのゲームを提案してみんなをひっぱっていくのに。倒産という文字が頭のなかで渦巻《うずま》いている未菜は、とてもカードを配る気になれない。三人の口からつぎつぎと飛び出す言葉はシャボン玉のようにすぐに弾《はじ》けて消えてしまう。未菜は冷《さ》めた目で三人の顔を眺めながら、彼女たちとずれてしまった距離を測った。自分はこのグループから抜けることになるだろう。 「うちの母親なんか、ばっちり化粧してパート行くんだけど、白いブラウスのしたからピンクのババシャツ透けて見えてるっちゅうの!」 「いくつ?」まゆが訊いた。 「四十四。瞳ぴゃんのママはいくつだっけ?」 「四十だったかな? よくわかんない。だって誕生日とか知らないもん。あとさ、小学生でも着ないようなピラピラ服買ってこられるとチョームカツクよね。本人はなに着ても許すけど、ひとに変な服買ってこないでほしいんだよね。返品して金返してもらえっていいたい」 「うちの母親なんかさぁ、PTAとかあると、もー若いお母さんばっかりでやんなっちゃうとかなんとかいって、ミッキーとかピーターラビットとかのキャラ入りのトレーナー着て行くんだよね。それってモロオバサンだよって忠告してあげたら、そういうことは自分のお金で洋服買ってからいいなさい、十年早いわよ、パートで稼いだお金ぜんぶ洋服に使えるなら、シャネラーにでもグッチャーにでもなるわよって完全キレてさぁ」  花音里はゲームに入っていない未菜に鋭い視線を投げつけ、いつもとちがうまゆの顔を見ながら必死で話の輪をつなげようとしている。  まゆは膝《ひざ》のうえで両手を固く握りしめ、なにかをしゃべり出す機会を窺《うかが》っているように未菜には見えた。そういえば、相談があると呼び出されたのだ、なんの相談だろう。 「ケーキ、食べる?」まゆは唐突《とうとつ》に立ちあがった。 「食べる食べる!」花音里が声を跳ねあがらせた。 「チョーラッキー。さっきビッグマックとポテト食べたばっかだけど、ケーキは別腹《べつばら》!」瞳が笑った。 「冷蔵庫にあったから持ってきちゃった。もらいものみたいなんだけどさ」 「花音里、おなか空いてたんだ。なにケーキ?」 「ショートケーキ。紅茶でいいね、こないだうちから持ってきたジャスミンティーあるから」まゆは台所に行った。 「さて問題でぇす。ショートケーキとチョコレートケーキとチーズケーキとモンブラン、どれがいちばんカロリー高いでしょうか」瞳が訊いた。 「やっぱショートケーキじゃない?」花音里がいった。 「生クリームとか胸に栄養つきそう。五キロ落としても胸小さくなったらやだな。でも、胸から落ちるんだよね」瞳は笑ったというよりピンクの歯茎《はぐき》を剥《む》き出した。 「だから花音里的には、寝るときも天使のブラしてるしぃ」 「寝れる?」 「ぜんぜん寝れる」  いったいカロリークイズはどこに行ってしまったのだろう、未菜は思わず噴き出しそうになったが、昨日までは自分も同じ会話の輪のなかにいたのだ。  やかんのピーッという音がして、数分後にまゆがケーキとジャスミンティーをのせたトレーを運んできた。 「食べて」金の縁取《ふちど》りのなかに黄色と紫とピンクの花輪が描かれているティーカップの受け皿を眺めているまゆの目は、長いまつ毛の翳《かげ》になっている。  四人はいっせいにケーキをフォークで崩して口に入れ、ジャスミンティーを飲んだ。  まゆは半分ほどで食べるのをやめて三人が食べる様子を眺め、ふいに組んでいた手をほどき、マルボロの箱を手探りで引き寄せた。だれも、まゆがいままで煙草を吸っていなかったということに気づいていなかった。まゆはふた口吸っただけの煙草の先を灰皿の底で押し潰《つぶ》した。 「優くんと別れたの、おととい」 「でも、あたしだってアックンと別れたと思ったけどヨリ戻ったし。ケンカした?」瞳が探《さぐ》るような目を向けた。  まゆはなにもいわずに立ちあがった。 「すぐヨリ戻るよ、まえにもあったじゃん、もう別れるって。だってラブラブ歴二年だよ、二年つきあったら別れられないでしょ」花音里がまゆの背中を撫《な》でるような声を出した。  トイレに行って戻ってきたまゆは、一本のプラスティックのスティックと一枚の紙を未菜に差し出した。 「読んで」まゆは響きのない声でいった。  未菜は左手でスティックを受け取り、右手に持った紙に目を落とした。〈妊娠検査薬チェックワンを正しく使用していただくためにお読みください〉という文字を読んだ瞬間、あっと声を洩《も》らしそうになり手で口もとを押さえようとしたが、スティックを持っていることに気づいておろした。〈朝・昼・夜いつの尿でも検査可能です。チェックスティックの判定窓に赤紫色のスポットがあらわれた場合、陽性(+)。妊娠反応が認められました。妊娠している可能性があります。できるだけ早く医師の診断を受けてください〉スティックの真ん中にある判定窓を見ると、はっきりと赤い点が出ている。未菜は瞳にスティックと紙を渡し、しばらくして瞳が花音里にまわした。最後に説明書を読み終えた花音里は両手に持っているものの処理に困惑している。 「まずいね」未菜がいった。 「優くんはなんていってるの?」花音里は顔全体を顰《しか》めた。 「だから、別れたっていわなかったっけ? 妊娠したって告《こく》って、堕《お》ろしてほしい? って訊いたら、そのほうがいいかもな、とかいわれて」まゆは笑って、だれかが笑うのを待ったが、だれも笑おうとしないので、目を大きくひらき、ショートケーキの苺をフォークで突き刺した。「あたしマジキレて大泣きしたんだけど、優くんはただやりたかっただけみたいな? なにげに慰《なぐさ》めるふりとかして服脱がそうとしてあせってんの」と苺を口に入れて噛《か》んで飲み込むと、ふたたび笑い出した。  未菜はひきつった笑い声をあげているまゆが妊娠さえも笑い飛ばそうとしているのか、それとも深刻な危機に直面して三人に救《たす》けを求めているのか、どちらか測りかねた。きっと三人に強くすすめられたというかたちで堕胎《だたい》を決断したいのだろう。いったい妊娠何ヵ月なのか、未菜はまゆの腹部に目を向けようとして逸《そ》らし、だれか早く堕ろすようにすすめればいいのに、と花音里と瞳を見た。花音里は降って湧《わ》いたスキャンダルへの好奇心と、面倒を持ち込まれた不快感のどちらを表すべきか決めかねているとでもいうように、目はまゆの不幸を喜んで生き生きと動き、口もとは不満げに歪《ゆが》んでいる。瞳はふい打ちを食らってただきょとんとしているだけだった。 「どうする?」未菜は冷めたジャスミンティーで口のなかのスポンジを喉に流し込んだ。  まゆはだれかが消し忘れて燃えているフィルターの火を、べつの吸い殻で何度も押し潰した。  四人はひと言も言葉を交わさず義務のように食べて飲んだ。まゆは立ちあがり、皿とティーカップを重ねて流しに沈め、リビングに戻ると、花音里の手から妊娠検査薬のスティックと説明書を受け取り、屑《くず》入れのペダルを踏んで蓋《ふた》を開けて棄てた。そしてしばらく捜し物でもしているかのようにハイネケンの缶とボルヴィックのペットボトルばかりの屑入れのなかを眺め、腕組みをして戻った。  三人とも押し黙っている。 「産むわけにいかないでしょ」花音里は腿《もも》のあいだに両手をはさんだ。 「いくらかかるんだろ? 知ってる?」まゆが目をしばたたかせた。 「知らないけど、十万とかじゃない?」  そういってから、警戒心で腰を浮かしそうになった花音里を目にして、未菜ははっきりとまゆの真意をつかんだ。三人にカンパを要求しているのだ。 「カレシに出させなよ」未菜は冷たくいい放った。 「サラ金に手ぇ出して、利子だけで月に八万とかはらってるの」 「どうすんの」瞳が訊いた。 「援交《えんこう》するしかないよね」  まゆは用意していた切り札を出したが、そういったまゆも、三人も、中年の男に全身を舐《な》めまわされる自分の姿を想像してあまりのおぞましさに身ぶるいした。  未菜はベッドに横たわって、『無罪モラトリアム』を聴いている。グループを抜けるつもりでいるからまゆのことなどもう関係ないのに、援交《えんこう》の二文字が頭から消えない。父の会社が倒産したら、授業料はいったいだれがはらうのだろう、月々の送金がなくなれば、弟が私立中学に入れなくなるどころか、生活そのものが成り立たなくなるのだ。死亡保険で一億円を遺《のこ》すといっていたのは、工場の土地が母のものにならないという意味ではないかという疑念で、未菜の頭は炙《あぶ》られ、援交に火がついてしまいそうだった。間違いない、一家はすべてを失い、路頭に迷うのだ。未菜は確信し、まゆのためではなく自分のために援交をやらなければならない、と目を瞑《つむ》った。  目を開けると、天井《てんじよう》に貼ってある黒夢《くろゆめ》のポスターがスポットライトを当てられているかのように浮かびあがった。上半身はだかの清春《きよはる》と目が合った瞬間、未菜の瞳は頬《ほお》が紅潮《こうちよう》するようにきらめいた。澄《す》み切った水を湛《たた》えた湖のような清春の瞳に未菜の全身が映し出され、未菜はそれが自分に与えられた罰に思えて、許しを乞《こ》おうとするかのように両手をゆっくりと差し伸ばした。清春の頬に指先が触れたように感じたとき、自分でも理解できない制御不能な力、エネルギーの大きな塊《かたまり》が湧きあがってきて、突然清春の瞳に宇宙が宿り、ほかのものはすべて消えてなくなった。宇宙は美しい瞳に似ていて、無限のなにかがあふれ、無限のなにかを吸収しているのだろうか。未菜は目を瞑《つむ》って、見られ、触れられ、抱かれているというイメージのなかを遊泳した。万華鏡《まんげきよう》を覗《のぞ》いたときのようにたくさんの小さな破片の模様が変化していき、まぶしい、と思った瞬間、光が爆発し、なにかがからだを突き抜けた。未菜は声にしたことに気づかないまま叫んでいた。  救けて!  遊泳は終わり、スポットライトは消え、虚空《こくう》に放り出されたような孤独感だけが未菜の胸を満たしていた。  援交はなにかと決別《けつべつ》すること、なにかを喪失《そうしつ》することだ。未菜はベッドのうえに立って黒夢のポスターをはがし丸めて筒《つつ》にしたが、もう一度ひらいて引き裂《さ》いた。援交は自分自身の過去、そして未来への裏切りだが、自分を裏切るだけでだれにも迷惑をかけないとしたら許されるにちがいない。でも果たしてほんとうに未来に出逢うかもしれない恋人に、夫に、夫とのあいだに生まれてくる子どもに迷惑をかけないと誓うことができるだろうか、未来そのものに迷惑をかけないと? 未菜は確信を持てないまま部屋を出て、密談するように顔を寄せ合っている母と弟に向かって微笑みかけた。 「今日さ、品川の会社に行ってみたんだけど、倒産とかするみたい。チョー笑えるよね」  未菜の哄笑《こうしよう》は手品師が引き出す万国旗のようにとめどなくつづき、部屋のいっさいが干涸《ひから》び罅割《ひびわ》れていった。  ハチ公口の改札を出ると、梓はなにもいわずに横断歩道を渡り〈109〉に向かって突き進み、弦一郎は梓のあとを追いながら、銀行が〈西武デパート〉のなかにあるのを目で確認した。所持金が不足したらカードで引き出せばいい。  ふたりはエスカレーターで六階にあがり、梓は〈ココルル〉に入った。日曜の店内は梓と同年齢か、歳下の少女たちであふれ返り、弦一郎は通路に立って少女たちの動きを目で追った。ほぼ全員が恐るべきほどのミニスカートかショートパンツだ。真冬に雨や雪が降っても彼女たちはタイツやズボンで脚を隠《かく》そうとはしない。観察していると、細くまっすぐ伸びた長い脚の娘《こ》もいることにはいるが、およそひとまえには出せないような不格好《ぶかつこう》な脚の娘も、これみよがしに見せびらかしている。弦一郎は目に飛び込んでくる少女たちの脚と店内のカラフルな商品でめまいを感じた。「弦一郎さん!」と呼ばれて、少女たちがひしめくなかに入るのは恥ずかしかったが、梓が差し出した長袖《ながそで》のシャツを手にとった。カラフルなバーコード模様のシャツで、弦一郎にはあまりいいと思えないどころか、悪趣味にしか見えなかった。 「ストライプってさ、からだとか細く見せる効果あるんだよね。これだったらさ、いろんな色入ってるから、ベルボトムのジーンズとか黄色いミニスカに合わせて」  弦一郎は値札を一瞥《いちべつ》した。四千九百円だった。 「もうひとつ、スカートかなんか買いなさい」 「いいの、もうここは。べつの店で買うから。こないだ雑誌で目ぇつけたかわいいGジャンがあるの。スペイン坂まで歩くよ」  いまでも恋文横丁《こいぶみよこちよう》という名前は残っているのだろうか、弦一郎が四十代のころまではまだ代書屋《だいしよや》の看板がかかっていた気がする。小便臭い呑み屋、ラブホテル、ストリップ劇場などしか目立たない、くたびれた中年の街という印象だったが、〈PARCO〉ができたころからだろう、いまではすっかり若者に占拠《せんきよ》されている。日曜日のせいもあって、通りは歩くことさえままならないほどひとであふれ返っている。〈西武デパート〉のA館とB館のあいだを抜けるほうが雑踏《ざつとう》を避けられるし早いのだが、梓はセンター街を通って行きたいらしい。 「梓!」  声をかけられて、梓は声の主を捜した。近づいてきて梓の肩に手を置いたのはまゆだった。 「びっくりしたぁ」梓がいった。 「チョーひさしぶりぃ」まゆが笑った。 「ぜんぜん変わってない」といったものの流行のラメ入りメイクで瞼《まぶた》をきらきらさせ茶髪にメッシュのまゆには小学校のころの面影《おもかげ》はまったく残っていない、と梓は思いながら、まゆの両どなりの三人に目を移した。  まゆは梓に、花音里と瞳と未菜を紹介した。  梓はまゆと幼馴染《おさななじ》みで、小五のときに同じクラスになり、毎日遊んだといっていいほど仲の良い友だちだった。三学期に突然まゆが引っ越すことになり転校したが、そのあとも電話をかけ合ったり手紙のやりとりをしたりして、休みの日にはたがいの家を訪ね交遊をつづけた。中一の夏ごろだろうか、どちらからというわけでもなしに連絡が途絶《とだ》え、いまでは思い出すことさえなくなってしまっていた。 「何年ぶりだっけ?」 「中一のころからだから、え? 三年ぶりとか?」 「ココルルで、なに買ったの?」まゆが袋のロゴを見て訊いた。 「シャツ」 「これからどこ行くの?」 「SUZY Q。オリジナルのGジャン買うの」 「えっ、ココルル行ったんでしょ? 同じ六階にSUZY Q入ってるよ」 「でも、スペイン坂のほう、まだ行ったことないから」 「いい感じだよ。ショップのお姉さんもチョーオシャレで親切だし」  梓はだらだらと話しかけてくるまゆを、じゃあまた、と振り切るわけにはいかず、離れたところで待っている弦一郎に救いを求めるような視線を送ったが、弦一郎はのんびりと道行くひとを眺めているようだった。  弦一郎は熱心にしゃべっている梓と友だちはいいにしても、あとの三人は明らかにつまらなさそうで、なかのひとりは苛立《いらだ》ちを隠《かく》そうともしないでいるのが気になって、遂に見兼《みか》ねて梓のところに行った。 「どうだね、わたしも喉が渇《かわ》いたから喫茶店にでも入らないか、いいかな」弦一郎はまゆに顔を向けた。 「いいんだけど、あたしたちお金ないじゃないですかぁ」まゆは突然現れた老人と梓の関係を考えながら、もしかしたらご馳走《ちそう》してくれるかもしれないという期待を隠すことができなかった。 「よかったら、わたしが」弦一郎は四人の娘に目をやった。 「おじいさんなの」梓がいった。 「あっ、逢《あ》ったことある。マジ覚えてる、梓んちで逢った」まゆはとっさにそういったのだが、顔を見ているうちにほんとうに記憶に残っているような気がしてきた。 「おじいさんといわれるのがいやらしくて、弦一郎さんと呼んでるの」  そう梓が紹介すると、「チョーかわいい!」とだれかがいって四人はいっせいに笑い、笑いがおさまると、どこの喫茶店がいいか話し合って、マクドナルドに決まりかけたと思ったら、ひとりが「もしかして、カラオケってありですか?」と目を輝かせ、「わたしはかまわないが」といった弦一郎を、梓は恨《うら》んだが、なりゆきにまかせるしかないとあきらめた。  弦一郎と梓は、四人の案内で道玄坂《どうげんざか》のカラオケボックスに入った。  カラオケはサラリーマン時代、接待《せつたい》でも歌わされたし、会社の呑み会でも上司に、「おい歌え」といわれれば拒否することはできなかった。ただそれはクラブや呑み屋に設置されているカラオケだ。弦一郎はボックスに入るのは初体験だった。  受付カウンターで「お時間は?」と訊かれてまごついていると、「とりあえず一時間」と瞳が代わりにいった。「三階の九号室です。時間がきてもお知らせしません。自動的に延長されますから」と弦一郎は店員に伝票を渡された。ドアを開けると、カーペットのうえにクッションがいくつも転がっている部屋で、少女たちは靴を脱ぎ、クッションを腰にあてて壁に寄りかかったり、膝のうえに置いて抱きかかえたりした。弦一郎は最後にあがったが、少女たちの香水なのか、この部屋独特のものなのかわからない匂いでむせそうになった。  テーブルのうえにメニューが置いてあるのを見た弦一郎は、「なんでも好きなものを頼みなさい」といった。四人は口々に食べ物と飲み物の名を叫び、最後に梓が顔を顰《しか》めて、「アイスティー」といい、まゆがインターフォンで注文した。  食事と飲み物が運ばれてくると、四人は言葉も交わさずに食べて飲み、あっという間に平らげた。そしてレースペーパーで唇を押さえ、バッグのなかから鏡を取り出して口紅を直しはじめた。  突然まゆがごそごそとプラダのリュックに手を突っ込み、「ねぇ、ここってケイタイ入るよね?」といいながらケイタイを取り出してボタンを押したが、なにもメッセージが入っていなかったのか、頭と壁のあいだにクッションをはさんで両腕をだらんと垂らしてスカートのうえにケイタイを置いた。  未菜はまゆのケイタイを見て、カレシとペアで付けていると自慢していたポコちゃんのマスコットがはずされ、代わりにシャネルのリボンのストラップをしているのに気づき、ほんとうに別れたんだ、だったら、だれからの電話を待ってるんだろうと思った。 「もっと食べたかったら、どんどん注文してもかまわんよ」弦一郎は彼女たちを面白がってはいたが、こころの奥底にひそんでいる憎悪が泡のように浮かんでは沈み、イヤというほど食べさせてやりたいという苛虐的《かぎやくてき》感情に駆られていた。 「弦一郎さんって、もしかしてスゴイお金持ち? じゃあ花音里的には、ショートケーキとアップルティーだな。いまアップルティー、チョーオキニなんですよぉ」 「あたし、トリのカラアゲとポテトっス」瞳は手鏡を覗《のぞ》き、パフで額《ひたい》のあたりを押さえながらいった。 「なにげにこのキムチうどんって気にならない?」花音里が訊いた。 「なるなる」瞳があいづちを打った。 「チョー豪華! ケイタイってすぐ五千円とか一万円とかになって、お小遣いとかすぐなくなるじゃないですかぁ、今月どうやって生きてこうと思ってたんですよぉ、弦一郎さんって救いの神ってやつですね」花音里がいった。 「これって援交《えんこう》?」  そういった瞳がまゆと花音里の顔を見ると、三人は小鳥が羽ばたくような笑い声をあげた。  鉤《かぎ》のように長く伸ばしネイルアートなるものを施した爪、耳朶《みみたぶ》にいくつも開けたピアスの穴、ミニスカートとルーズソックス、黒のストレッチブーツ、メッシュ入りの茶髪《ちやぱつ》、一年中日焼けサロンで焼いている褐色の膚《はだ》、服装、髪型、しゃべりかた、どこから見てもだれが見ても完璧なコギャルである彼女たちに、弦一郎は気恥ずかしさと嫌悪感を感じながら、この娘たちのうちだれかは援助交際をしているのだろうかとぼんやり考えた。援助交際は女子中・高校生の売春だという認識しかないが、彼女たちを売春に走らせているのは明らかに社会の要請《ようせい》だ。社会はあからさまに彼女たちの消費熱を煽《あお》っている。女子中・高校生の経済のバランスシートの支出が超過しているというのなら、必然的に収入を考えなければならない。これまで経済でしか世の中を考えてこなかった弦一郎には、からだを売る少女たちと、金策《きんさく》にあがく零細《れいさい》企業の経営者はなんら変わりないように思える。 「援助交際をやってる娘《こ》なんて、まわりにはいないだろうね」弦一郎は思わず訊《たず》ねてしまった。 「五、六人くらいかな、クラスで」 「でも、オヤジとカラオケとかつきあってるだけでしょ? ウリはやってないよ。ウリやってるのは、Cクラスのアイツらだけじゃない?」  そういって、ウーロン茶をストローで吸い込んだまゆの唇のうえには一連の汗の玉がついている。ぜんぜん暑くない、寒いくらいなのに、なにも食べないし、具合が悪いのだろうか、と未菜はカラアゲに伸ばした手を止めた。 「あぁ、アイツらはマジやってるね。道玄坂、眼鏡かけたオヤジとのぼってたの見たっていってたもん。目撃者続出って感じ?」瞳が割り箸を割ってキムチうどんを食べはじめた。 「援交は悪いことじゃないけど、ウリだけはマジ勘弁《かんべん》みたいな? よくいうじゃん、キスなし、フェラなし、一回イッタラ終わりで三万、処女だったら五万出すとかさぁ。でも、お金とかはほしいけど、オヤジってマジ汚いじゃん」瞳がうどんを食べながらいった。  ボックスに入ってからまだひと言もしゃべっていない梓が立ちあがり、弦一郎が横顔を見ると、「トイレ」と短くいって外に出た。 「弦一郎さん、会社どこ?」まゆが訊いた。  弦一郎が退職した食品会社の名前をいうと、「チョー有名じゃないですか」、「あたしカップラーメン毎日食べてる」などと騒ぎたてるので、定年退職したといいそびれてしまった。 「弦一郎さんの会社のひとで援交とかしてるひとっています?」まゆが訊ねた。 「さぁ、どうだろうな」弦一郎は穏《おだ》やかな眼差《まなざ》しをまゆに向けた。 「梓だったよね?」未菜はまゆにたしかめてから、「もし梓さんが援交やってたらどうします」と弦一郎に顔を向けた。 「梓はそんな子じゃない。だから考えたこともない」未菜の挑みかかるような質問に即答した。 「どうして、そんな子じゃないっていえるのかな」  未菜は、祖父と両親に保護されて偏差値の高い女子高に通っているという梓に対して嫉妬《しつと》と軽い憎悪を抱いていた。祖父が生きていたら会社は倒産しなかったかもしれないし、少なくともあの男が家から出て愛人と暮らすということにはならなかったはずだ。もしそうだったら、勉強に意欲を失くすこともなかったし、ごく普通の女子高校生でいられたにちがいない。梓はもうひとりの自分なのだ、と思った自分の感傷《かんしよう》に、さらに疵《きず》ついた未菜は、自分たちを珍しいペットに餌《えさ》を与えているような目で眺めている老人に冷たい視線を投げた。 「梓が外でなにをしているかはわからない。ときどき遅く帰ってくることもある。もし仮にだれかがだ、いや、本人が援助交際をしてるといったとしても、わたしは嘘《うそ》だと思う。どんなに梓がやっているといい張っても、ほんとうだとは思わんだろう。つまりだ、わたしは梓を信じてる、そんなことをする子じゃないと。年寄りは頑固《がんこ》でね、そういうものだ」弦一郎は一気に答え、きれいごと過ぎるか、いや、これでいいのだ、と思った。 「いいなぁ、あたしもおじいさんがほしい」瞳がぽつりといった。  戻ってきた梓にちらっと目をやって、歌いたくてうずうずしていた花音里が皆を誘った。 「ねえ、せっかくきたんだから、歌お」 「採点モードにしよ」瞳はリモコンを操作すると、バッグのなかからメモ用紙を取り出し蛍光ピンクのマジックで六人のイニシャルを書いた。  弦一郎が梓の耳もとに口を寄せ、「しばらくつきあって出よう、歌いたいか」と訊くと、「早く消えたいよ、歌いたいはずないじゃん」というささやきが返ってきた。  弦一郎は真面目腐《まじめくさ》った顔で歌を聴いていたが、彼女たちの歌唱力も歌詞もまったくわからなかった。同じような曲を同じように歌っているとしか思えないが、だれかが歌い終わったときに、「これあたしの結婚式に歌ってよ、あたしマジハタチまでに結婚するからさぁ」「この歌聴いてると、早く結婚して子ども産んで公園デビューとかしたいと思わない?」などとやりとりしているのを耳にすると、歳月という波が、いますぐにでも彼女たちをさらってどこにでもいる平凡《へいぼん》な女たちの岸へ連れ去ろうとしているような気がした。カラオケを歌っているこの娘《こ》たちは、むかし土産《みやげ》物屋《ものや》によくあった、雪が降るガラス玉に閉じ込められた少女のように思えてならない。ひとりが熱唱してもだれも聴いていない。歌っている娘も、順番を待っている娘も、他者が必要なのだ。彼女たちは水面から口を突き出している水槽《すいそう》の金魚にも似ている。歌いながらだれかを待ち、歌いながらなにかが起きるのを待ち望んでいるのだ。弦一郎は、だれもこない、なにも起こらない、それに堪《た》えるのが生きるということだ、といってやりたい衝動《しようどう》に駆《か》られたが、おそらく彼女たちも気づいているのだ。だれかを、なにかを熱望する、それが若さだ、もうすぐなにも待ち望むことは失《な》くなるのだから、と口を噤《つぐ》んだままでいた。弦一郎には、ルーズソックスも、彼女たちのあいだで流行《はや》っているいっさいのものも、待っているという信号に思える。カラオケは恐ろしく孤独な祝祭《しゆくさい》だ。 「出よう」弦一郎は梓に耳打ちした。  店を出た途端《とたん》に梓が口をひらいた。 「あの子たちマジ援交やってる」 「どうしてそう思う」 「だって、そういう顔してるもん」 「勘《かん》か」  スペイン坂のちょうど真ん中にある〈SUZY Q〉の狭い入口に入った梓のあとを追って、弦一郎は地下への階段をおりて行った。  Gジャンを見ていた梓は、となりに吊《つ》り下がっている丈《たけ》の短い白いワンピースをハンガーごとはずして胸にあてた。 「弦一郎さん、このワンピいいと思わない? このしたに、大きめのベルボトム重ね着して、頭にバンダナ巻くのね、そうすると七〇年代のヒッピースタイルみたいな? これ、かなりポイント高いよ。試着していい?」  弦一郎は孫娘とたいして歳がちがわない店員の視線が気になり、「試着していいから、もう弦一郎さんはやめて、おじいさんと呼びなさい」と小声でいった。  鏡に映っているのはまぎれもない老人の顔だった。乳児と同じで老人の顔には人格《じんかく》が反映されないものなのか。むかしは六十年、七十年の営為《えいい》を刻んだ固有の顔を持った老人がいたものだが、近ごろは百人の顔をコンピューターで合成したような平均的な顔が増えている。目のまえに在《あ》るのは他人の顔だ、もはや松村弦一郎ではない。こめかみの老斑《ろうはん》はまだ米粒より小さいが、いまにティッシュにこぼした褐色のインクのようにひろがるだろう。それにしても老醜《ろうしゆう》という言葉は差別語《さべつご》ではないか。「チョームカツク」と口に出し、弦一郎はにやりと笑った。肌着を脱ぐと、上半身はさらに惨状《さんじよう》を呈《てい》していた。弦一郎は生まれつき毛深く、胸から股《また》にかけてつながって生えているのだが、頭髪は年々|薄《うす》くなっていくのに、体毛は増えつづけているような気がしてならない。胸毛はすでに白くなっているが陰毛はそれほどでもない。髪の生《は》え際《ぎわ》と髭《ひげ》が先行し、それから髪、胸毛、陰毛の順で色素が抜けていった。そのうち臑毛《すねげ》まで白くなるのだろうか、今度|銭湯《せんとう》にでも出かけて観察してみたいものだ。  浴槽に浸《つ》かって、弦一郎は大きく息を吐《は》いた。梓と帰宅するなり、「あら、楽しそうですね、孫でも若い娘とデートすると若返るものなんですね」と佐和子にからかわれたが、腹が立たなかったのは、やはり女学生たちに囲まれたのがうれしかったのか、ひょっとしてホルモンに変化があったのかもしれぬ。機会があればあの女学生たちにまたご馳走してやってもいい、とてのひらで湯をすくって顔をたたいたとき、弦一郎は、あっ、と声をあげて立ちあがろうとしたが、ざぶんと湯のなかに腰を落とした。  全裸の梓がまえを隠《かく》そうともせずに笑っている。 「ど、どうしたんだ、出て行きなさい」ヘアヌードじゃないか、と弦一郎は動揺《どうよう》した。 「いっしょに入ろうよ」梓はなんの屈託《くつたく》もなく洗面器で湯を汲《く》んでからだにかけた。 「わたしはあがるから、とにかく外に出て。バスタオルを巻いて待機《たいき》しなさい、待機ッ」  湯温が急上昇したかのように額《ひたい》からどっと汗が噴き出し、弦一郎は目をしばたたかせた。 「なに恥ずかしがってんの? 子どものころ背中流してあげたじゃない」 「もう高校生じゃないか、とにかくあがるから」と弦一郎は湯からへそまで出し、浴槽の縁《ふち》をつかんだ。 「出てっちゃ駄目。追い出したみたいじゃん。せっかく背中とか洗ってあげようと思ったのにぃ」 「いいか、まず、わたしが出る」  弦一郎はタオルに手を伸ばしてまえを隠し、梓に背を向けたまま右脚を浴槽から出して着地させ、次いで左脚を湯から抜いた。そして入れ替わりで梓が湯に浸かったのを機にドアの把手《とつて》に手をかけた。 「じゃあたしも出る!」  梓が音をたてて湯から立ちあがったので、弦一郎は洗い椅子に腰をおろすしかなかった。今日は若返るような楽しい思いをしたのか、冷水を浴びせかけられたのか、居心地が良いのか悪いのかわからない奇妙な一日だ。 「どうして恥ずかしがるのかなぁ」 「俊一ともときどき入るのか」 「ぜったいヤダ! 恥ずかしいとかそういう問題じゃなくて、もしあたしが入ってるときに、あのひとが入ってきたらコロス!」 「それで、わたしと入るのがいやじゃないっていうのは変じゃないか」 「あのひと、キャバクラとかヘルスに行ってるんだよ」 「どうしてわかる」弦一郎はタオルに石鹸《せつけん》をなすりつけて足の裏を洗った。 「帰ってきたときの目付きと臭いでわかる。弦一郎さんのほうがさ、あのひとより、お父さんって感じがする。子どものころよく遊んでもらったからかな」  同居したとき梓はもう十一歳か十二歳で、それほど遊んでやったという記憶はない。でもあのころは朝夕の食事をいっしょにしていたし、すくなくとも俊一よりは接する時間は多かった。 「スキーに行ったことがあったな」 「沖縄にも連れてってくれたよ。背中洗ってあげる」 「いい」弦一郎は思わず洗い椅子を引いた。  梓は勢いよく湯からあがり、タオルを奪って石鹸を泡立てると、骨ばった背中を洗いはじめた。  弦一郎は、もし勃起《ぼつき》したらどうしよう、破廉恥《はれんち》ではないか、と顔を赤らめて腿《もも》と腿をぴったりとくっつけた。 「リラックスしなよ」 「からかうんじゃない。わたしだってりっぱな」と言葉を切った。 「なんなの?」 「いや、なんでもない」 「りっぱな男だ、っていいたかった?」梓は洗う手を止めて、身を捩《よじ》って笑い出した。 「梓、入ってるの!」  佐和子の声で、弦一郎は首を竦《すく》めた。  ドアを開けて顔だけ突き出した佐和子は目と口を大きくひらき、「あっ! あら、あらまぁ、なにしてんの」あまりのショックで間の抜けた声を出した。  梓は無視してタオルを動かしつづけている。  弦一郎はどう対処すればいいか見当もつかず、情けないと思いながらも黙り込むしかなかった。 「早く出なさいッ!」今度は張り詰めた声だった。 「申しわけありませんが、閉めていただけませんか」梓はなんの抑揚《よくよう》もつけずにいった。  佐和子は梓をにらみつけていたが顔を引っ込めて、「梓! 出なさい!」もう一度外から怒鳴《どな》った。しばらくドアの向こうで様子を窺《うかが》っていた佐和子がわざとらしい足音をたてて居間に去るのを待って、梓は秘密を共有したものの親密さでささやいた。 「あれ、カンペキ欲求不満だね」 「もういい、ありがとう」 「まえも洗ってあげようか」梓は澄《す》ました声でいった。 「い、いい」弦一郎はあわててタオルを奪い取った。 「ちょっとあったまるね」といって梓は浴槽に入り、湯に顎《あご》まで沈めた。  祖父と孫娘がいっしょに入浴しているのを目撃した母親が怒るというのはどこの家庭でも同じなのだろうか、と弦一郎は考えた。父親と歳ごろの娘が入浴すれば、母親は心中|穏《おだ》やかではないだろうが、このケースは微笑《ほほえ》ましいと思うべきではないだろうか。普段は老人の性を無視しているくせに、けしからん。それにしても堂々と振る舞った梓と較《くら》べて、自分は恥ずべき行為を覗き見されたように狼狽《うろた》えてしまった。弦一郎は自分に腹をたてながらからだを洗い流した。 「ムカツクから、ゆっくり入ってようね」 「交替しよう」  入れ替わるとき、梓のからだから立ちのぼる香りが弦一郎の顔を包み、思わず盗み見てしまった。そんなに大きくはないが、ちゃんと逆ハート形にふくらんでいる尻、湯を弾《はじ》き返して輝きを放っている。弦一郎は、いかん、いかん、と邪念《じやねん》を振りはらって浴槽から出た。 「もう出るの?」梓が髪をシャンプーで泡立てながら訊いた。 「あぁ、のぼせた」  弦一郎は佐和子が脱衣籠《だついかご》のなかに置いていったパジャマを身につけ、上気した顔を鏡に映した。なんとはなしに活力が漲《みなぎ》っているように見え、やはりホルモンだな、とこころのなかでつぶやいて二階に行こうとすると、「お話があるんです」俊一が待ち構えていた。 「お茶にしますか? それともおビール?」佐和子が訊いた。 「じゃ、お茶もらおう」ビールなど呑んで長居《ながい》する気はない。 「お父さん、佐和子から聞いたんですがね。佐和子、ビール」  お父さん、いえるじゃないか、だが今後は、お父さん、と呼ばれたときは下心があると用心しなければ、と弦一郎は思った。風呂の話であれば、微笑ましいと思わないのか、この変態ども、と怒鳴りつけて二階にあがるつもりだったが、マンションの件だとしても、どっちつかずの返答をして楽しんでやるのも悪くはない、と視線を合わせようとしない息子夫婦を冷ややかに眺めた。  佐和子は湯飲みを弦一郎のまえに置くと、俊一のとなりに腰をおろしコップにビールを注いだ。 「梓といっしょに入るのは控えていただきたいんです。やっぱり歳ごろの娘なんですから」 「その話はいい。今日だけのことだし、梓に注意すればいいことだ。で、お父さん、なんですか? 事業に出資するという話、佐和子から聞いたんですがね、ほんとうですか?」 「考慮中だ。熟考してるってとこだね」弦一郎は厳《いか》めしい表情を拵《こしら》えて茶を啜《すす》った。 「なんだ? トイレだったか?」俊一は佐和子に顔を向けた。 「寝たきり老人の下《しも》の世話をする機械ですよ」 「お父さん、そんなものをですね、どうして出資者を募《つの》らなければ成り立たないような会社で製造できるんですか? いったいなんですか、下《しも》の世話というのは」 「自動|排泄《はいせつ》処理機。おむつよ、さようならってわけだ」 「どんなもんなんです」 「要するに、だ、人工肛門とウォシュレットを合体させるという画期的な発明品だ。実現すれば介護《かいご》に革命をもたらすな」弦一郎は口から出まかせの言葉をすらすらいえることに満足して、すっかりくつろいだ気分になった。 「正直いって、ぼくには想像できませんね」俊一は泡が消えかかったビールを喉に流し込んだ。 「あたりまえだ。おまえのような凡人《ぼんじん》にピンとこられるようじゃ、画期的とはいえんだろ」 「そりゃそうですが」俊一はすねたようにテーブルに、|の《ヽ》、の字を書いて、「凡人ですかねぇ」とつぶやいた。 「わかりやすくいえば、人工肛門のように管《くだ》がついていてだねぇ、ひとつの管はウォシュレットのように尻を洗い、もうひとつは尻を乾かすんだな」 「じゃあ、出たものはどうなるんです」 「出たもの?」 「大便ですよ、お通じ」 「ウンコですよ」佐和子が大きくうなずいた。 「排泄物だね、そりゃあとうぜん」弦一郎は茶をひと口飲んで思案《しあん》し、「べつの管から回収するわな」といった。 「回収、ですか?」俊一が目を剥《む》いた。 「バキュームカーの原理を合体させるんだろうな」 「バキュームカー!」佐和子がのけ反った。 「そう、バキュームカーの原理を応用する」弦一郎はこみあげてくる笑いを必死になって堪《こら》えた。 「おまえにわかるか?」俊一は首をひねって佐和子の顔を見た。 「吸いとっちゃうんでしょうかね」  うつむいていた弦一郎の喉からくっくっという声が洩《も》れ、肩が揺れ出し、沸騰《ふつとう》した笑いが居間中にあふれかえった。  俊一と佐和子は顔を見合わせ、同時に立ちあがって叫んだ。 「どうしたんです!」  風呂からあがって居間に入ってきた梓も髪をバスタオルでたたきながら、「なに、どうしたの?」と弦一郎につられて笑い出した。  呆然と見守っている俊一と佐和子を尻目にふたりは笑いつづけ、梓が先に、そして弦一郎がやっとの思いで笑いを飲み込み、「いや、悪かった、悪かった、なんでもない」と手の甲で涙を拭《ぬぐ》って肩で大きく息を吐《は》いた。 「ねぇ、教えて教えて。なにがおかしかったの?」梓は弦一郎がこんなにおかしそうに笑うのをはじめて見た。 「あとで、今度な。それでは寝るよ」と弦一郎は立ちあがった。 「ぼくらをからかったんですね。もうすこし話をさせてください」俊一は怒りを抑《おさ》えていった。 「からかうわけがないじゃないか。ちょっとべつのことを思い出して笑いが止まらなくなったんだ。なんだったかな、話って?」 「退職金をなにに使おうがお父さんの自由です。ただ、この家を抵当《ていとう》にして、怪しげな会社に出資するのだけはやめてください」 「絶対にやめてください」佐和子が頭を下げた。 「わたしが死んだらこの家はおまえが相続《そうぞく》する。だが、わたしが生きているうちはわたしのものだ」 「この家は松村家のものでしょうが。ぼくはお父さんに一度|訊《き》いてみたかったんですがね、家族ってものをどう考えてるんですか? まるで他人みたいに食事だってべつにしてるそうじゃないですか。いったいお父さんにとって家族ってなんなんです!」  こんな芝居がかったことをいえるのか、あまり感心はしないが、突然家族愛に目醒めたのかもしれない。家族の存在理由について一家言持っているなら、ぜひ拝聴しようじゃないか、と弦一郎は口もとをゆるめたまま俊一を見据《みす》えた。日本たばこ産業の総務部に勤めている俊一は可もなく不可もないという堅実な性格で、凡庸《ぼんよう》で平和な家庭を築いたという一点においてはりっぱだが、そもそもたがいに無関心でいられたからこそ、この家族は小康《しようこう》状態を保っているのではないか、どうする、俊一。弦一郎は、ふいに死んだ父親を思い出し、つまらん三代だったという思いに囚《とら》われた。梓が女で良かった、これでろくでもない男の直系は途絶えるのだ。子どものころは父親が正月の膳《ぜん》のまえに正座した家族に、今年も一年仲良く生きていこう、などと訓辞《くんじ》を垂《た》れていたが、ここは亡父に敬意を表して謹厳《きんげん》にいわねばなるまい。 「ひとつ屋根のしたで血のつながった親と子が暮らしていくということだろう」 「それだけですか」俊一はどこへ軟着陸すればいいかわからないとでもいうように不安をあらわにした声でいった。 「暮らし以上のものがあるでしょうに。暮らすだけだったら虚《むな》しいじゃないですか」  まさか泣き出すのではあるまいな、俊一にこういう一面があったとは、弦一郎は内心驚いていた。俊一とは高校に入ったころからろくに口をきいていないので、いったいなにに関心を持ち、家庭の外でどんな人間関係を持ち、会社では有能なのかどうか、なにひとつ知らない。いつの間にか就職して結婚した。たいていのことは妻から事後に知らされ、そうか、で済ませてきた。出来の良い息子だと他人にいわれれば、それを認めるのはやぶさかではない。弦一郎は俊一が気の毒になって、もうひと言付け加えることにした。 「まぁ、できれば、たがいに救け合うことだな」 「そうです、ほんとうにそう」佐和子が神妙に二度大きくうなずいた。  沈黙がつづいたので、弦一郎はつい弾《はず》みでサービスした。 「わたしもわがままで頑固な人間だが、みんなには迷惑をかけないでやっていくつもりだよ」 「わがままだなんて、そんなことおっしゃらないでください」佐和子が涙ぐんだ。  これで最後に俊一が気のきいたことをいってまとめてくれれば今夜の家族会議はおひらきになる、と俊一の顔を注視したが、うつむいたままでいっこうに口をひらこうとしない。無能な奴だ、これでは会社の会議でろくに発言もできまい、と弦一郎は苛立《いらだ》った。 「お父さんにとって家族ってなんなの?」  梓の口からピンポン球のように飛び出した言葉に頭を直撃されたのか、はっと顔をあげた俊一は不安げに視線を泳がせてから、眼鏡のなかにひとさし指を入れて目のしたをこすった。 「よしなさい、梓! せっかくおじいさんが、お義父《とう》さんが、いえ、弦一郎さんがはじめてこころをひらいてくださったのに」佐和子が梓をにらみつけた。 「お父さんにとって、あたしはなんなの?」 「娘だろう」俊一は顔を引き締めた。 「娘ってなに?」 「だから、父親として育ててるということだ。大学まで責任を持つし、きちんとこの家から、いや、マンションになるだろうが、嫁に出すつもりだ」 「そっかぁ、いいよ、わかった」梓は話を打ち切るような口調でいった。 「じゃあ、おまえにとって、父親とはなんだ」ムッとした俊一が逆襲した。 「ご飯を食べさせてくれて、学校に行かせてくれて、嫁に出してくれるヒト」  弦一郎はふと、よく似ている、この娘には頑固さと意地悪さと常人には理解し難いユーモアのセンスがある、隔世遺伝《かくせいいでん》だな、と思い、にやりとしそうな口もとを手で拭《ぬぐ》った。 「バカにしてるのか、おまえ自身がどう考えているのかを訊いてるんじゃないか!」 「やめましょう、こんな暗い話。やっぱりこの家のせいですよ、日本家屋って暗くて湿っぽいから。夜景が見えるマンションで、娘とはなんだ、父親とはなんだ、なんて話する気にならないでしょ? 母親とはなんだ、妻とはなんだ、舅《しゆうと》とはなんだ、なんて」 「うるさいッ、黙ってろッ!」 「あら、あたしはあなたの味方じゃありませんか」 「梓、いってみろ!」俊一は憮然《ぶぜん》としてビールを注いだ。 「それは呑まんほうがいい、気が抜けてる」弦一郎が口をはさんだ。 「余計なこといわないでくださいッ!」と俊一は一気に呑み干し、赤くなっている顔を思い切り顰《しか》めた。 「だって、わかんないよ。どんな人間かもわかんないし、なに考えてるか、なんのために生きてるのか、なに色が好きなのか、どんな音楽が好きなのか、なにを憎んで、なにに感動してるのか、お父さんのことなんにも知らないもん。おじいちゃんのことはわかる、わかるんだよ。ほんとはわかんないんだけど、なんかわかる。どうやって生きてけばいいか、わかんないで困ってることがわかる」  弦一郎はふいに、ひろびろとした草原に佇《たたず》んでいる自分の姿を思い浮かべた。風が強く、草が激しく波打っているなかを行くあてもなく、ただ歩いている。自分だけではなく、梓も同じなのだ。べつの草原で、風に吹き飛ばされそうな麦藁帽子《むぎわらぼうし》のつばを両手で押さえながら、スカートをバタバタはためかせて歩いているのだ。でも、いったいどこへ? 「もう寝よう」  弦一郎は、必死に涙を堪《こら》えている梓の肩にそっと手を置いた。  未菜がショックを受けたのは、章三がテーブルに座っているということより、八年ぶりに家を訪れたことによって、会社の倒産と家族の崩壊がリアルなものとなって迫っていると思ったからだった。  一瞬未菜の顔を見た佑子の声が途切れたが、すぐに棘《とげ》だらけの声が放たれた。 「百万円、明日までに百万円用意してください。あたしが事務所に取りに行きます。そして今月いっぱいに三百万。クリスマスまえまでに六百万集めてください。それができるまでは倒産なんてさせるもんですか!」  うつむいている歩《あゆむ》の顔は紅潮《こうちよう》し、ときどき顔をあげては章三を憎しみの視線で突き刺している。 「未菜も座りなさい。あなたにも関係ある話なんだから」  未菜は無視して部屋に行こうとした。 「座りなさい!」  ドンとテーブルをたたく音がして、同時に湯飲みが倒れて床に落ちた。振り返ると、佑子がありったけの力で顔中の筋肉を強張《こわば》らせている。未菜はしかたなくテーブルにつき、通学|鞄《かばん》を床に置いた。 「生きるか死ぬかの瀬戸際なのよ!」佑子が絶叫した。  どちらかといえばおとなしく、子どもに対しても怒るというより愚痴《ぐち》めいたいいかたしかしない母が恐ろしい形相《ぎようそう》で怒鳴りまくっている。壊れてしまったのだろうか。未菜は自分の目と耳を疑った。この男が打たれ強いボクサーのように平然としていられるのは、これくらいのことでは掠《かす》り疵《きず》ひとつ負わないほどの苛酷な現実に堪《た》えているからだろう、溺《おぼ》れかけている犬が飛んでくる小石に怯《ひる》むはずがない。 「明日までに百万というのは、正直いって無理だな」自分に課せられた責任をすべて放棄《ほうき》しようとしているのか、間延びした声で答えた。 「工場も事務所の土地もなんの相談もなく担保《たんぽ》に入れてるなんて、あたし名義《めいぎ》の土地じゃない!」 「おまえだって親父《おやじ》さんの娘だ、零細企業の土地が担保になってることぐらい知らないわけじゃないだろ」 「だってあれは、あたしの財産、あたしのものなのよ」 「そう大声出さなくたって聞こえる。堂々巡《どうどうめぐ》りだ。これ以上話してもしかたないな」 「帰さないわよ」薄笑いを浮かべた佑子はヒステリックに笑い出したかと思うと、突然口を噤《つぐ》んでにらみつけた。 「だからさっきも説明しただろう、二回もな。おれだって日参《につさん》して手形の書き換えを頼んでるんだ。それが駄目なら倒産だが、その場合は死んで生命保険の一億円は遺《のこ》すといってるじゃないか」 「死んでくれるんですね」狡猾《こうかつ》な牝犬《めすいぬ》のような上目遣《うわめづか》いになった。 「死んで花実《はなみ》を咲かせるしかないわな」章三は咳《せ》き込むように笑った。 「あの女にはいくら遺すつもり?」 「関係ないだろ」 「保険料は毎月きちんとはらってるんですか? 滞納《たいのう》しないで」興奮がおさまったのか、次第に佑子の声から抑揚《よくよう》が失われていった。 「滞納は四、五ヵ月かな。でもその分引かれるだけだろう」 「明日、保険会社に行ってたしかめてきます」 「倒産するとか自殺するとかいうんじゃないぞ」  張り詰めていた空気が弛緩《しかん》し、居間にどんよりとした沈黙が漂《ただよ》いはじめた。 「食べて行ってください」 「これから支度するんだろ、もう六時過ぎてるぞ」 「お鮨《すし》でもとります」佑子は奇妙な笑みを浮かべた。 「酒はあるか」 「あるわけないでしょう。このうちのだれが呑《の》むんですか?」 「歩は買ってきて、くれないよな。未菜も駄目か」 「行くわけないでしょ」佑子はまだ蝋燭《ろうそく》のように微笑みを揺らめかせている。 「いいよ行っても、なに?」ここにいるよりはましだ、と未菜は立ちあがった。 「そうか、ありがたい。サントリーの角瓶《かくびん》でいいけど、なければなんでもいい、千五百円くらいの買ってきてくれ」と財布から二千円を抜き取って手渡した。  からだのなかを通り抜けるような風が心地好い。未菜は酒屋に向かって歩きながら、現実というものはなんと秩序がなく、もつれた糸をほどくように手間がかかるのだろうと思った。あれで決着がつくほど単純ではないことは母にもわかっているはずだ。あの男に食事をすすめ酒を呑むことを許したのは、自分の手にあまるほど複雑に絡んで瘤《こぶ》のようになってしまった糸をほどくか、断《た》ち切るかしなければならないと切羽詰《せつぱつ》まっているからだろう。だけど、ふたりがかかえている現実は異《こと》なっているのだ。この社会の現実は数え切れないほどピースが多いジグソーパズルのようになっていて、ほとんどのひとがどのようにピースを嵌《は》め込めば絵柄《えがら》が現れるのか確信を持てないでいる。なかには勝れた直観力《ちよつかんりよく》と、全体像と細部の関係に確固とした見通しを持って、小さなピースを見てもあわてふためくことなく、ひとつひとつ埋めていけるひとは存在する。自分には全体像が見えないし、はっきりとした輪郭《りんかく》の全体像などとても持てるとは思えない。手に握っているピースは家族、学校、友だち、援交《えんこう》しかない。でもこれだけでは全体像は姿を現さない。一億円あればとりあえずのパズルは完成するのかもしれないが、手に入らなければそれぞれのピースは孤立し、棄てられ、べつの全体像を見つけない限り破滅する。虚脱感《きよだつかん》が全身にのしかかってきたが、もうすぐ酒屋だと気を取り直して、未菜は足をまえに進めた。  居間に戻ると、ふたりは和解が成立したとでもいうように笑い声をたてていた。この笑いはいやな臭いがする。未菜は眉間に皺《しわ》を寄せた。 「おぅ、ありがとう」 「コップでいいわね」  息が合った夫婦のような会話のやりとりにげんなりした未菜は鞄を持って自分の部屋に向かった。  制服を脱ぎ、ほんとうは寝てしまいたかったが、そうはいかないだろうとジーンズに脚を通しセーターを着た。ベッドに仰向《あおむ》けになって天井《てんじよう》を見ると、黒夢《くろゆめ》のポスターはない。ぬいぐるみやレターセットなど意味なく集めたものは全部棄ててしまおう、明日か、明後日、と考えているうちにうとうとしてしまい、未菜はドアのノックの音で上半身を起こした。 「お鮨《すし》きたみたいだよ」歩の声だ。 「いま行く」といって腕時計を見ると、部屋に入ってから四十分も経っていない。  テーブルにつくと、それぞれのまえに鮨桶《すしおけ》が置かれ、章三は水割りを呑みながら上機嫌でしゃべりまくっていた。  未菜は嫌いなマグロとイカとホタテを箸《はし》でつまんで歩の桶に入れた。 「四つのときだったかな。歩に釘《くぎ》の打ちかたを教えてひどい目に遭《あ》ったじゃないか。家に帰ったら廊下《ろうか》に二列釘がずらっと並んでた。あれにはマイッタ」 「しかも上手にまっすぐ打ってたじゃないですか。覚えてますよ」佑子は章三の想い出に寄り添《そ》うようにいった。 「未菜は」なにも思い出せないのか、章三の視線はテーブルのうえを彷徨《さまよ》った。 「ほら、あれ、あれじゃないですか、三つのときに迷子になって、ふたりで半狂乱になって近所を捜しまわったんだけど、結局どこにもいなくて。警察に連絡したら保護されてるっていわれて、ふたりで迎えに行ったら、未菜ったら婦警さんと遊んでて、パパとママも遊びにきたの、だって」  ほんとうは覚えていなかったが、くりかえし聴かされたせいで、未菜の記憶の一部に刷り込まれていた。迷子になっていたのに遊んでいるつもりだったというのは気に入っている。いまは遊んでいるつもりが、実は迷子になっているのかもしれない。 「殺されても保険金おりるのかな」歩がぽつりとつぶやいた。  団欒《だんらん》の記憶を呼び起こそうとしていた章三と佑子は、上映中の映像が突然消えて館内が真っ暗になったとでもいうようにしばらく身じろぎひとつしなかったが、ふたり同時に歩の顔を見た。 「死ななかったら保険っておりないんだよね?」歩は表情のない顔を章三に向けた。 「心配するな」章三はウイスキーを呷《あお》った。 「だって逃げちゃえば、それっきりでしょ」 「逃げる場所なんてどこにもない。あったらとっくに逃げてるさ。ないよ、どこにも」 「殺されてももらえるのかって訊いてるんだよ」  三人はいきなり飛び込んできた蝙蝠《こうもり》のような言葉に身を硬くした。 「そりゃ、もらえるだろう」 「ふぅん」歩ははじめて緊張をほどき、割り箸を割ってカッパ巻を口のなかに放り込んだ。 「ただ、佑子が殺した場合はもらえない」 「ぼくが殺したら」ふたたび鳥のような目を章三に向けた。  未菜には歩の言葉がふたりの知覚を奪い、体温さえも吸い取っていっているように思えた。弟ではあるけれどほとんど口をきいていないので、ただおとなしくて成績表のなかにいる子だとばかり思っていたけれど、もしこの男が殺されたら自分は真っ先に歩の顔を思い浮かべるだろう。愛華《あいが》学園の生徒が小学生のグループにレイプされたという噂が流れたとき、クラスのだれかが、「そんなの嘘《うそ》だよ、中学生だったらわかるけど」といって笑ったが、小学生にレイプや殺人ができないとは未菜には思えない。 「殺すのか」章三は追い詰められた昆虫が出す毒気《どくけ》のような声を口から洩《も》らした。 「歩! 心配しなくても、ちゃんと責任をとって死んでくれますよ」高熱でうなされている息子を落ち着かせるような口調で佑子がいった。 「おれが死ねなかったら、おまえが殺してくれるのか?」章三に酔いがまわりはじめた。 「やめて! 歩、部屋行って勉強しなさい。さ、早く」  歩はすっと立ちあがったものの、章三に据《す》えた視線を動かそうとはしなかった。 「殺してくれるのか。それに答えたら、保険がおりるかどうか説明してやろうじゃないか」  未菜は歩の頭のなかのジグソーパズルの絵柄《えがら》は父親殺しなのだろうか、と思った。自分と同じようにこの男に死ぬ度胸《どきよう》などないと見抜いていることだけはたしかだ。その確信とこの場の虚偽《きよぎ》に板挟《いたばさ》みにされて悲鳴をあげているのは、むしろ歩のほうなのかもしれない。 「絶対死んでくれますよ」佑子がしんみりとした声でいった。 「死ぬ死ぬって何度いえば気が済むんだ! そんなにおれを殺したいのかッ!」と怒声《どせい》を浴びせたものの、章三は矛先《ほこさき》を佑子に向けられたことに救《すく》われていた。 「死ぬっていったのは、あなたじゃありませんか!」  佑子は立ちあがって飾り棚の引き出しから便箋《びんせん》とボールペンを取り出し、テーブルのうえにたたきつけた。 「倒産したら自殺するって一筆書いてください」 「夫に向かって自殺しろだの、父親に向かって殺すだの、そんなこという家族は滅多《めつた》にいないぞ」章三は歩から解放されて気がゆるんだのか、へらへらと笑いはじめた。 「あなたは夫でも父親でもありません」 「おっ、じゃあ責任とらなくてもいいわけだな。夫でも父親でもないおれが、どうして他人の生活、面倒みるために死ななきゃならないんだ」 「それとこれとは話がべつです!」と叫んで台所に駈け込み、戻ってきた佑子の手には包丁が握りしめられていた。 「さぁ、書きなさい!」  章三は一瞥《いちべつ》しただけで薄笑いを浮かべている。 「そんなもの書かせても意味ないよ」未菜がいった。 「そうさ、借用書《しやくようしよ》じゃあるまいし、どこに持ち込むっていうんだ。さて、と、帰るぞ」  そういって章三が立ちあがる素振《そぶ》りを見せた瞬間、佑子はワッと泣き崩れ、やがてしゃくりあげ、啜《すす》り泣きに変わった。  夫の浮気、そして長年にわたる別居を乗り越え、優秀な息子の教育に全力を尽くすことで自分を支えていた母にとって、目前に迫っている危機を乗り越えるには保険金しかないのだ。こんな男など当てにしないで、なんとか母子三人で暮らしていく方法を模索《もさく》するほうが現実的ではないか、そう考えなければいけない、と未菜は思った。今日、まゆたちとどうやって援交するか相談したけれど、四人いっしょにやる方法は見つからなかった。ひとりでやるしかない、と決心したとき、ふいに渋谷でカラオケに行った老人の顔が浮かんだ。弦一郎サン、だ。  肩を抱いて佑子を椅子に座らせた章三は、コップに半分ほどウイスキーを注いで一気に呑《の》み干した。 「いつもおまえたちには済まないと思ってきた。かたときも忘れたことはない。未菜も歩もかわいい。おまえはおれの妻だ。だから離婚しないんじゃないか。生涯《しようがい》、妻はおまえひとりだ」  未菜は、酒を呑むと涙もろくなるひとだったことを思い出した。普段はどちらかというと気難しく、お金にもうるさいのだけれど、酔うと気前が良くなり無類の善人のように振る舞う。いまは自分の内に残った愛情まがいのものを在庫セールのようにたたき売る気分になっているのだろう。 「死ぬ! おまえたちのために死んでみせる。おれは約束するぞぉ」 「どうやって死ぬんですか」佑子は涙声の裏に猫の爪《つめ》のような計算をひそませていた。 「いろいろある。飛降り、溺死《できし》、焼死《しようし》、ガス。おい未菜! トイレットペーパー持ってこい!」 「どうするんですか?」佑子が訊《き》いた。 「トイレットペーパーでも死ねるんだ」  未菜は動かなかったが、佑子は失禁《しつきん》寸前のようにトイレに駈け込み、トイレットペーパーを突き出した。  章三はペーパーを凄い勢いで右手に巻きつけて引き千切り、ふ、ふ、ふ、と得意気に笑ってからいった。 「こいつを飲めば、死ねる」 「だって、胃液なんかで溶けちゃうでしょ」 「飲み込んでみるか」 「どうぞ、あなたが」 「ま、いろいろある、いろいろとな。おまえたちのためにりっぱに死んで見せる。通夜《つや》も葬式もなし。おまえの家の墓に入る資格はないから、骨はそこらへんに、いや品川の海にでも散骨《さんこつ》してくれ」涙が頬《ほお》を伝って顎《あご》から落ちるまえに嗚咽《おえつ》した。 「なにいってるんですか。うちのお墓に入ってもらうに決まってるじゃありませんか。お墓参りだって命日だけじゃなくて、年に二、三回は行きますよ」  未菜は下手糞《へたくそ》な漫才を観させられているような痛々しさと怒りを感じ、いつ席を立とうか機を窺《うかが》った。 「保険金がおりたとして、借金の返済《へんさい》に充《あ》てなきゃならないなんてことあるかしら」 「わからん。ただ迷惑をかけるつもりはないし、かけないで済むと思ってる。でもわからん、おれにはもうなにがどうなってるのか、わからんよ、わからん」嗚咽はさらに強まった。 「しっかりしてください。あなただけが頼りなんですから。離婚して、受取人はあたしの名義のままにしておく。そうでしょ!」 「離婚なんてしたくない」 「偽装離婚《ぎそうりこん》なんですよ。それで、あなた、今日からこのうちに泊まってもらいますよ」 「どうして」章三は涙で濡れた顔をあげたが、酔いで頭が揺れていた。  未菜は立ちあがり、部屋に入って鍵をしめた。母はあの男が自殺するまで監視《かんし》するつもりなのだ。現実は、笑えない喜劇、泣けない悲劇だということがよくわかった。未菜はケイタイを握りしめた。電話するしかない。だれに? 知っているひと全員に。ボタンを押して、耳にあてるとコール音が響き、感情のないアナウンスが返ってきた。 [#2字下げ]オカケニナッタ電話ハ [#2字下げ]電波ノトドカナイ場所ニアルカ [#2字下げ]電源ガハイッテイナイタメカカリマセン  弦一郎は地下鉄で渋谷に向かっていた。  昨夜、「梓にだったんですけど、いないといったら、じゃあ弦一郎さんに替わってくださいですって。未菜って子からですけど」と怪訝《けげん》そうな顔の佐和子から受話器を受け取った。弦一郎はすぐにこのまえ逢《あ》った四人の女学生のうちのだれかだろうと思ったが、名前と顔が一致しなかった。「相談したいことがあるんですけど、明日渋谷でお逢いできないでしょうか」と差し迫った口調で切り出されて当惑し、相談の内容を知りたかったのだが、聞き耳をたてている佐和子の手前、「四時にハチ公前で待ってます」という言葉に、「わかりました」といって切るしかなかった。 「だれなんですか?」と訊《たず》ねる佐和子に、「梓の友だちだ。うん、伝言を頼まれた」と誤魔化《ごまか》して二階にあがった。一時間後に帰宅した梓がさっそく部屋にきて、「未菜って子から電話あったんだって?」と訊《き》くので、「あぁ、梓にってことだったけど、わたしが出た」弦一郎はのんびりと答えた。「ふぅん、どうしてうちの電話わかったんだろう」と疑惑の眼差《まなざ》しを向けてきたので、「そりゃ、ほらなんて名前だったかな、ほら、梓の小学校時代の友だちから教えてもらったんだろ」と弦一郎がいうと、「そっかぁ。伝言ってなに」と訊いてきた。「このまえのお礼をいいたかったみたいだ。礼儀正しい子じゃないか、梓にもよろしく伝えておいてくれ、それだけだ」と、なんとかその場をしのいだのだった。  弦一郎は大勢がひと待ちをしているハチ公前を見まわして未菜を捜《さが》した。セーラー服は三、四人の女学生のグループしかいなかったので、すぐに見つけることができた。カラオケボックスでほかの三人と較《くら》べて、ひとりだけどことなく浮いていた陰気《いんき》で無口な娘《こ》だ。鞄《かばん》を両手で握りしめて雑踏《ざつとう》に佇《たたず》んでいる未菜は、暗いというのでも深刻な悩みをかかえているというのでもなく、空虚《くうきよ》さのなかに無感動に立ち竦《すく》んでいるように思え、かえって不安になった弦一郎はこのままUターンして帰ろうかと思ったが、ふうっと息を吐き、ゆっくり近づいて声をかけた。  未菜は黙ったまますこしだけ首を傾《かし》げた。 「喫茶店にでも入るかな」当惑《とうわく》を通り越して途方《とほう》に暮れていた弦一郎は、自信の欠片《かけら》もない自分の声を聞いた。微《かす》かにうなずいた未菜を、「行こうか」とうながし信号が青に変わったばかりのスクランブル交差点を渡りながら、「おなかはどうかね、もし空いてるなら食べながら話してもかまわんよ」というと、「はい」と肯定とも否定ともつかない答えが返ってきたので、「どんなものが好きかな? 和、洋、中、イタリアン、いろいろあるが」と渡り切ったところで立ち停まって訊ねた。 「マックでいい」未菜ははじめてはっきりと声を出した。  弦一郎はファーストフードの店に入るのは何年ぶりだろうと記憶を探《さぐ》ったが、思い出せなかった。たまに梓と外出するときには、彼女が普段口にしない中華料理や焼肉や鮨などの店に連れて行く。 「遠慮しなくていいんだよ」弦一郎は励ますようにいった。そう、梓に接するように振る舞えばいいのだ。 「チーズバーガーとかが好きなんです。フランス料理は大嫌い」  チーズバーガーとフランス料理の比較に思わず笑った弦一郎は、「じゃあ、そうしよう」と同意し、いったいなんの相談なのかさっぱり見当がつかなかったが、まさかハンバーガーを食べながら深刻な話をするわけでもあるまいと内心ほっとして、「どこにあるのかね?」と和《なご》やかな声で訊ねると、未菜はセンター街に向かって歩き出した。  入ってすぐのレジカウンターには行列ができていた。 「うえ行って、席とっといてください。なに食べます?」 「コーヒーだけでいい」と弦一郎は金を受け取ろうとしない未菜に、強引に千円札を渡して二階にあがった。  二階も若者たちでいっぱいで、カウンターしか空いていなかった。とりあえず未菜に食べてもらって、話は喫茶店で聴けばいい、と弦一郎はカウンターに腰かけ、鞄をとなりの丸椅子に置いて未菜の席を確保した。よくよく観察すると、テーブルが埋まっているといってもほとんど皆食べ終わっている。手鏡を覗《のぞ》いて眉《まゆ》を描いたり、トレーのうえでマニキュアを塗っていた女学生のグループが化粧が終わったのか騒々《そうぞう》しく立ちあがったので、席を移ることにした。  トレーを運んできた未菜が腰かけると、弦一郎はコーヒーをひと口|啜《すす》って切り出した。 「電話をもらったのには驚いた。わたしになんの相談があるんだろうと考えたんだが、思いつかなかった。で、話というのは?」 「このあいだカラオケに行った子のひとりが妊娠《にんしん》しちゃったんです。それでお金が必要じゃないですか」そういって未菜はうつむいた。 「食べながらでいい。食べなさい」  梓もそうだが、若い女の子の旺盛《おうせい》な食欲を目にするのは嫌いではなかった。弦一郎は未菜がシェイクをひと口飲み、ハンバーガーを食べたのを見届けてから、未菜の真意をつかめないまま質問した。 「どうして相手の男性に責任をとらせないのかね。そういう場合、男に金を出させるのが当然というか、普通だと思うがね」 「あたしもそういったんですけど、サラ金とかで借金してるひとっているじゃないですか。その子のカレシもそうみたいで」とストローを唇にはさみ、ズ、ズ、ズ、とシェイクを吸いあげた。 「いくらかかるんだろうな」弦一郎はシェイクを飲んでいる凹《へこ》んだ頬《ほお》を見ながら訊《き》いた。 「十万ぐらいじゃないですか?」 「で、わたしに相談というのは?」金を貸してほしいということだと確信したが、気づかないふりをして訊《たず》ねた。 「弦一郎さんの会社にはたくさん社員がいるじゃないですか、援交《えんこう》してもいいみたいなひと、紹介してもらいたいんですよ」  弦一郎は呆気《あつけ》にとられたが、組んでいた脚《あし》をおろして未菜の顔を見た。あの会社で援助交際の相手を募《つの》ったらいったい何人集まるだろうと考え、胸の内でカラカラと笑った。 「もしわたしが相手になりたいといえば、それでもいいわけかな」  ちらっと弦一郎の顔を見てすぐしたを向いた未菜は、唇に力を入れて笑いを堪えた。 「いや、もちろん冗談だ。わたしは援助交際なんてすべきではないと考えている。だから、あなたたちにもしてもらいたくない。で、どうだろう、その費用をわたしが負担しようじゃないか。これで問題は解決するね?」 「どうしてはらうんですか?」 「いきがかり上ってところかな。金持ちってわけじゃないがね、それくらいの余裕はある」 「そんなのおかしい。関係ないじゃないですか。それに」未菜は言葉を切って、押し黙った。  しばらく待ったがなにもいわないので、なんだね、と訊こうとしたとき、未菜が立ちあがった。 「どうした?」 「アップルパイ食べる」未菜がいった。  堕胎《だたい》とアップルパイが同じ口から間を置かずに出てきたことに面食《めんく》らいながら、トレーに置いてあった釣銭《つりせん》のなかから硬貨を何枚かつまみあげて手渡すと、今度は素直に受け取って階段をおりて行った。  弦一郎は未菜のこころの動きをまるで読めないことに苛立《いらだ》ちを感じ、そういえばいつだったか言葉が通じない外国の小都市に放り出され右往左往《うおうさおう》している夢をみたな、と思い出した。ここは異国《いこく》なのだ。彼女たちがそのうち、チョーなどという言葉をあっさりと棄《す》て去るのはわかっているが、コギャル語は自分たちを護るための防壁《ぼうへき》なのではないかという気がしないでもない。でもいったい、なにから、なにを護る、と考えたとき、未菜が戻ってきた。 「さっき、なにかいいかけたが、なんだね?」弦一郎が口をひらいた。 「倒産ってあるじゃないですか、父の会社が倒産するみたいなんですよ。だから、援交しないと駄目なんです、あたし」 「そりゃたいへんだね」友だちの妊娠どころではないな、と弦一郎は思わず身構えた。 「たぶん公立に転入しないと駄目なんですよ。弟も来年私立中学を受験するんですけど、そんなの無理だと思うんですよ。両親はずっと別居してて、父が生活費とか振り込んでくれてたんだけど、それがなくなったら、母がパートに出ても、そんなに稼げないじゃないですか。風俗やれるほど若くないし」 「いまの生活を維持したいということかな?」 「生活とか変えるって恐いじゃないですか。狭いアパートとかに移って、自分の部屋も持てないなんて考えられないっていうか、弟は父を殺すっていってるんです」 「え?」弦一郎は耳を疑った。 「子どもが父親を殺しても、生命保険ってもらえるんですか?」 「生命保険? あなたの話には飛躍があり過ぎてちょっとついていけないが、整理するとだね、あなたの弟さんが、お父さんを殺したと仮定して、受取人がお母さんになっている保険金がおりるかどうかということを知りたいのかね?」  未菜は弦一郎を見てうなずいた。 「法律にくわしいわけじゃないが、受取人であるお母さんがまったく殺人に関与していないことが立証《りつしよう》されれば、おりるんじゃないかと思うんだがね、わからんよ、専門家じゃないから。それより、そんなこと、考えること自体がおかしい」 「本気かもしれない」 「話を戻してだね、たしかに生活を変えるというのはたいへんだ。だが、それは、高校生のあなたの手にはあまることで、ご両親にお任せするしかないんじゃないかな。お母さんはいくつ?」弦一郎はいますぐ席を立って逃げ出したかったが、なんとか踏み止まった。 「四十一、二かな?」はっきり知らないことを恥じたように一瞬うつむいたが、顔をあげて残りのアップルパイを食べた。  佐和子よりだいぶ若い、とぼんやり考えながら未菜の顔を見た弦一郎は、このまえ逢ったときはなんとも思わなかったものの、この娘はおそらく本人も周囲のだれも気づいていないだろうが、あと二、三年経てばだれもが振り返るほどの美人になるにちがいないと思った。 「その、別居しているお父さんが振り込んでくれていた生活費、いくらだったんだろう」 「わかりません」 「援助交際というのはいくらもらえるのかな?」 「四万とか五万とかって話も聞いたことあるけど、たぶん二万くらいかな」 「お母さんがパートに出たとしようか、一ヵ月に稼《かせ》げるのはせいぜい十五万くらいだろうね。仮にいままでの生活に四十万かかっていたとしたら、二十五万が不足だ」  未菜は細かい数字を並べたてる弦一郎の話をすべて飲み込めたわけではなかったが、援交だけで生計をたてていくのは難しいということだけはよく理解した。 「できるかね?」  できるわけない、未菜は唇を噛《か》んだ。  目の前にいる女学生はなんといっても十五歳なのだ、家族の崩壊に脅《おび》える少女なのだ、と弦一郎の胸に痛みが走った。二間のアパートに転居《てんきよ》して、母親はパートに出て、この娘は公立に転入し、弟は私立受験を断念するしかないだろう。この娘は伝言ダイヤルかなにかで相手の男を見つけて月に一、二度からだを売って小遣《こづか》いを得て、高校を卒業したら風俗嬢《ふうぞくじよう》になるかもしれない。しかし、このような娘は決してすくなくはない。性産業に身を置く女性のほとんどはなんらかの事情で金に躓《つまず》いた経験があるにちがいない。 「あなたが納得できる方法が見つかるかどうかは約束できんが、二、三日時間をくれないかね。考えてみようじゃないか。案外いい方法が浮かぶかもしれない。ところで連絡する場合はどうすればいい?」  未菜は通学鞄のなかから手帳を取り出し、プリクラの裏にケイタイの番号を書いてテーブルに置き、メイクポーチを持って洗面所に行った。  弦一郎は使わなかった紙ナプキンに二万円を包み、外に出たときに黙って手渡した。 「なに?」 「とっておきなさい」 「お金?」 「たいした額じゃない。しまいなさい」 「もしかして、援交?」  弦一郎はあわてて周囲に目を配り、「行こう」といって歩き出した。 「わたしはねえ、見ての通りおじいさんだ。援交とやらをする歳じゃない」といってしばらく歩いたが、スクランブル交差点の信号が青になるのを待ちながら、「正直にいえばだ、実はしてみたいのかもしれない。だがね、わたしはしない、できないというほうが正確だろうね。こんな歳でもまだ、だれかと恋愛をしてみたいという気持ちは残っているが、相手にしてくれる女性がいない。あなたはどうかな? 恋愛は?」 「これ、もらえません」質問には答えず、包みを弦一郎の胸もとに突き出した。 「そうか、気を悪くしたのならあやまる」弦一郎は受け取ってポケットにしまい、「明後日の日曜日に逢うっていうのはどうかな?」と訊いた。 「いいですけど、何時?」 「一時は? 食事しないできなさい。お昼をいっしょに食べよう。ハチ公前でいいね」  弦一郎はJRの改札まで送り、「じゃあ、わたしは地下鉄だから」と会釈した。未菜は最初に逢ったときと同じ笑みを浮かべると、改札に向かって歩き出した。弦一郎が踵《きびす》を返そうとしたとき、未菜がくるりと振り返って右手をあげた。 「友だちだよね!」  弦一郎は通行人の背中に見え隠れする未菜に、はじめて少女らしい笑顔を見てとり、大きくうなずいて手を振った。  家に帰って居間に入ると、俊一が観ていたテレビを消して鋭い視線を投げてきた。ふむ、四十過ぎの男が眼鏡かけてテレビを観てどうする、新聞を読め。それに日本たばこ産業に勤めながら禁煙する男の気がしれない、と息子の視線を跳《は》ね返して階段を四、五段のぼったとき、「最近、よく外出なさりますね。お元気でけっこうなことですけど」と佐和子が勢いよく階段をおりてきた。すれちがうためにはどちらかが壁に背中をつけなければならない。早くどけ、と弦一郎は佐和子をにらんだが、避《よ》けるどころか、弦一郎を階下に押し戻そうとするように左脚をあげたままだった。その気迫に負けて、弦一郎は階段をおりた。 「今日もまたトイレの相談に行ってらしたんですか」佐和子が笑いを強張《こわば》らせた。 「家の登記簿《とうきぼ》は当分ぼくに預からせてください。お願いしますよ」俊一が叫ぶようにいった。  弦一郎は一瞥《いちべつ》しただけで、佐和子を手で押し退《の》けて階段をあがった。  ふざけた奴等《やつら》だ、それに頭が悪過ぎる、ここに棲《す》んでさえいればローンも家賃もないのだ、たいていの家庭がかかえている月額十万以上のリスクがゼロなのだから、その分|贅沢《ぜいたく》もできれば貯金もできる。購入したがっているマンションの価格と、この家を売却した金額との差額がいくらなのかは知らないが、現状が悪くないのに、それ以上を望んで事を起こすのは愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》だ。俊一も佐和子に乗せられて夜景を見おろす生活をしたいなどと吐《ぬ》かしおって、莫迦《ばか》めッ! と吐《は》き棄て、弦一郎は机のうえの埃《ほこり》を手ではらって椅子に座った。  考える余地もなく、援助交際の相手を紹介することなどできるはずがない。まさかむかしの部下を呼び出して女衒《ぜげん》まがいに誘えるわけもないし、それよりもなにより、あの娘《こ》に援助交際などしてほしくない。  突拍子《とつぴようし》もなく、弦一郎は自分が未菜の母親と再婚するという案を思いついた。そうなるとすくなくともすることはできるわけだ。十代の子どもふたりをかかえた父親ともなればなにかと忙しいだろうし、まぁたまにはセックスもしなければなるまい。ふむ、まんざら有り得ない話でもない、むしろ大いに有り得ることだ。新しい人生というのも悪くない、なにしろ刺激的だ。マンションの一室で母子三人と食事をしている自分の姿を思い浮かべ、やはり有り得ない、とその考えは脇に置いた。  俊一を脅迫《きようはく》して金を吐き出させるのはどうか、という穏《おだ》やかならざる考えが閃《ひらめ》いた。最低でも一千万は貯蓄《ちよちく》しているにちがいない、そのなかから半分|奪《うば》ってもたいした罪にはなるまい。それに脅迫できる弱みを握れば今後は思いのままに操《あやつ》れる、まさに一石二鳥だ。  女学生のひとりと俊一がホテルに行く。ベッドのうえで女学生は上半身はだか、俊一は全裸、もうひとりの女学生がポラロイドでふたりを写す。弦一郎は紙に絵コンテを描きはじめた。そして何日かあとに写真を同封した脅迫状を送りつける。それを偶然知ったと見せかけて、自分が交渉役《こうしようやく》を買って出て金の受け渡しをする。下手糞《へたくそ》なミステリーのような筋書《すじが》きだが、単純な筋書きであればあるほどひとは騙《だま》され易《やす》いものだ。問題は、どうやって俊一と女学生を接触させるかだ。声をかけられたからといって、そう簡単に売春に走るとは思えないし、俊一が確実に援交《えんこう》に応じる方法を考えなければこの計画は頓挫《とんざ》する。俊一の性格、どんな人間なのかを短期間のうちに見極《みきわ》めなければ、と考えながら、いまはじめて息子を知ろうとしている自分の愚《おろ》かさに呆然《ぼうぜん》とした弦一郎は、自分も、俊一も、未菜も、この世界のすべてを呪《のろ》いながら、息子と女学生との接触方法を真剣に考えた。  弦一郎は、約束の日曜にハチ公前に現れた未菜を、在職中に二、三度入ったことがある公園通りのイタリアンレストランに連れて行った。  未菜は海の幸トマトソーススパゲティとサラダとフレッシュオレンジジュースを、弦一郎は生ハムのメロン添《ぞ》えと赤ワインのハーフボトルを頼んだ。 「未菜って呼んでほしいんだけど。あなたっていわれると緊張するじゃないですか」 「あぁ、じゃあ、そうしよう」  弦一郎の耳に、友だちだよね! といった未菜の声が蘇《よみがえ》り、ふいに学生のころ、『女学生の友』という雑誌を従妹《いとこ》が愛読していたことを思い出した。ほかにも『それいゆ』とか『ひまわり』という雑誌を読んでいたような気がする。いまになって思えば、あのころの女学生は信じられないほど素直で純情だった。だが、彼女たちの孫がコギャルに育ったのだ、とスパゲティを食べ終わった未菜を見て、弦一郎はメニューを手にとり、「このサラダ感覚のピッツァというの、食べてみないかね」いったいいつからピザがピッツァになったのか、と思いながら訊《き》いた。 「おなかいっぱい」未菜は膝《ひざ》のナプキンでトマトソースがついた唇の端《はし》を押さえた。  陽が翳《かげ》ったように静かになった店内を見まわすと、いつ席を立ったのか、客は弦一郎たちを含めて三組しか残っていなかった。 「考えたんだがね」弦一郎は自分の緊張をほぐすようにさりげなく切り出して、息子を恐喝《きようかつ》する計画を話しはじめた。最初は熱っぽく説明していたのだが、未菜が退屈な授業を聞くような表情をしていることに気づいた途端《とたん》に失速し、「どうだろうね?」と弱々しく微笑《ほほえ》みかけた。 「それって、犯罪だよね」といって未菜は、「犯罪ですよね」といい直した。距離がはっきりとしているおとなには丁寧語《ていねいご》で話せるけれど、すこしでも親しみを感じるひとに対して改《あらた》まった言葉を使いつづけるのは、サイズが合わない服を着ているようで窮屈《きゆうくつ》な思いがする。親しくもないのに恐喝の話なんかするはずがない。 「いつもの言葉で話してもかまわんよ」弦一郎は未菜の気持ちを読み取ったかのようにいった。 「ほんとにやるの?」本気にしたら、冗談だよと笑われるに決まってる、と未菜は思った。 「援助交際より罪《つみ》は軽い」 「どうして」 「援助交際は淫行《いんこう》というとんでもない破廉恥《はれんち》な行為だが、この計画は、説明するのは難しいんだがね、自分で自分の金を盗むといえばいいのかな、そんなようなもんだ」 「それって、教師が自分のつくった試験問題を盗んで、生徒に渡すみたいな?」 「どんぴしゃりだ! 頭がいい。まさにぴったりだよ!」弦一郎は感嘆《かんたん》の声をあげた。 「でも、そんな教師いないよ」未菜は素《そ》っ気《け》なくいった。 「ここにいる」と弦一郎が自分の顔を指さすと、未菜は笑い声をたて、「マジやるの?」と両手で頬杖《ほおづえ》をついて弦一郎を見た。 「わたしは、きみたちがやるというなら、やるよ。冗談でこんなこというはずがない」 「じゃなくて、あたしが訊いてるのは、セックス」 「とんでもない。あいつにそんないい思いは、いや、未菜ちゃんにもだ、させるつもりはない」弦一郎は舌を噛《か》みそうなほどあわてて否定した。  未菜が黙っていたので承知したのだと理解した弦一郎は計画の細部を、とくにベッドインしてからの段取りを説明した。二日間かけて綿密《めんみつ》なシナリオをつくりあげたのだ。問題は、風呂からあがった俊一がバスローブをつけたままか、脱ぎ棄ててベッドに入るか、だけだった。 「どうしてそれが問題?」 「まぁ、その、なんだな、バスローブをつけたままベッドに入られるとだな」弦一郎は要領を得ないいいかたをして、グラスにワインを注いだ。 「わかんない」未菜は唇をとがらせた。  もしバスローブをつけたままだと証拠写真を撮るまえに俊一が未菜を愛撫《あいぶ》する可能性があるといいたかったのだが、口に出せないというより、それが口惜《くや》しく、ほぼ完璧に近いシナリオのなかで唯一空白になっている部分だった。昨夜も未菜のからだを舐《な》めまわす穢《けが》らわしい俊一の薄い唇がちらついて、計画そのものを放棄しようかと思い悩んだほどだった。 「そうだ、バスローブを隠《かく》してしまうという手がある。となると、バスタオルを腰に巻きつけるしかない」弦一郎は自分の思いつきににんまりした。 「それって変じゃない?」 「変だな。ま、俊一を一刻も早く全裸にして写真を撮らなければ駄目だってことだ。未菜ちゃんが臨機応変《りんきおうへん》、|沈着冷静に《ちんちやくれいせい》対応するのが望まれるところだね」弦一郎はしどろもどろにいった。 「なんかそのひとかわいそう。弦一郎さんの子どもでしょ?」 「だいたい淫行《いんこう》しようと思わなければそんな目に遭わないんだから、自業自得《じごうじとく》だ。これに懲《こ》りてくれれば、家庭の平和維持のためにも貢献できる。ほかの三人もやると思うかね?」 「やるよ。援交より割りがよさそうだし、面白そ、あの子たち、タダでもやるかも」 「未菜ちゃんはどうだね?」 「やる。なんかふっきれそう。あたし」といって、未菜は考え込むような顔つきで黙った。 「なんだい?」 「あたし悪女になってやる」  弦一郎は思わず噴き出したが、悪女になるためには援助交際などやってはいけないのだといってやりたかった。二万か三万の金で汚らしい男どもに性を売るようでは悪女とはいえない。悪女というものは、この女のためなら全財産を擲《なげう》ってもいいと男に思わせるほど、男を手玉にとれなければいけないのだ。そのためには、いまは貧しくてもいい、むしろ屈辱《くつじよく》的なほど貧しいほうがほんとうにタフな悪女に成長する、といつか話してやろうと思いながら、弦一郎は手をあげてボーイを呼び、未菜のためにデザートを注文した。  つぎの日曜日、弦一郎は昼食を終えたばかりの俊一を、「ふたりだけでマンションの話がしたい」といって外に誘い出した。駅前の商店街の喫茶店で、しばらくは俊一の話をさも興味がありそうなふりをして聞いていたが、「ちょっと待ってくれ」と立ちあがって外に出た。  二、三日まえ、佐和子になにげなく、「俊一に趣味はあるのか」と訊くと、意外にも句会《くかい》に顔を出し俳号《はいごう》まで持っているということを知った弦一郎は、彼女たちに『奥の細道』からとった句の解釈を訊《たず》ねさせるという出逢いのきっかけを思いついた。唐突《とうとつ》過ぎないかと迷ったが、ひとは自分の趣味にかかわることには無防備《むぼうび》になるものだ、と弦一郎は楽観的に考えることにした。  となりのテーブルで待ち構えていた未菜とまゆがごく自然な動作で立ちあがり、俊一の向かいに並んで座った。 「この句、どんな意味かわかりませんか」まゆがノートを差し出した。 「ほう、芭蕉《ばしよう》だね。野を横に馬引むけよほとゝぎす、か」俊一はなんの疑いも抱《いだ》かずに解釈をはじめた。  未菜が立ちあがり、わざと尻を突き出すようにして椅子の背にかけてあるバッグからメモ帳を取り出したとき、俊一の視線がミニスカートの奥に注がれたのをたしかめて、「ちょっとトイレ」とまゆは席を立った。そのあいだに未菜が、「ケイタイとか持ってます?」と訊くと、俊一はあっさりと番号を教え、未菜がメモ帳に自分の番号を書いて渡すと、「かけてもいいんだね」俊一は意味ありげな笑みを浮かべながらポケットにおさめた。  弦一郎が十分ほど時間を潰《つぶ》してドアを開けると、俊一の高笑いがして、もし二時間帰らなくても話しつづけただろう、と思いながらテーブルに近づいた。 「ありがとうございました」未菜とまゆは同時に立ちあがってとなりのテーブルに戻った。 「なんだ」弦一郎は訊ねた。 「いや、まじめな子たちですよ、俳句の勉強をしてるんです。句の解釈を教えてほしいというもんでね」俊一は声をひそめた。 「なんだおまえ、俳句がわかるのか」弦一郎はショートピースをテーブルのうえに置いた。 「そうだ、お父さんも俳句やったらどうですか。こう見えてもぼくは俳号を持ってるんです」俊一は目の端《はし》で未菜をとらえている。 「ほう、なんというんだ」 「いやぁ、嗤《わら》うからいえませんよ」 「なぜ嗤うんだ」よくわかってるじゃないか、と弦一郎はピースに火をつけた。 「芭俊《ばしゆん》です」  弦一郎は思い切り笑った。  となりのテーブルのふたりは立ちあがってレジカウンターで料金を支払い、未菜は俊一に、まゆは弦一郎に目配《めくば》せして外へ出て行った。  二日後に未菜のケイタイが鳴り、「逢いたい」と俊一がいうので、「援交ですかぁ」と訊くと、「いやぁ、はっきりしてていいね。三十分後にもう一度電話する」と切れたが、ちょうど三十分後にケイタイが鳴り、俊一にホテルの名と待ち合わせの時間を告げられ、未菜は弦一郎に電話した。  弦一郎が公衆電話からそのホテルにかけると、俊一は本名で予約していて、フロントはなんの疑いも抱《いだ》かずすぐにルームナンバーを教えてくれた。しばらく置いてふたたび電話をかけ、空いていることを確認して、となりの部屋を予約した。本名で予約していてくれて手間が省けた、もし松村芭俊だったらぶん殴っていたところだ、弦一郎は憮然《ぶぜん》とした面持ちで電話ボックスをあとにした。  廊下《ろうか》に顔を突き出して待っていた瞳は、未菜をなかに入れ、次いでまゆと花音里が入ってくるのを見届けてドアを閉めた。  隣室《りんしつ》との壁に耳をあてて様子を窺《うかが》っていた弦一郎は、ベッドのうえで呆然《ぼうぜん》としている俊一を想像して憐《あわ》れに思わないでもなかったが、投げられた賽《さい》だ、引き返すわけにはいかない、と顎《あご》を引き締めた。 「ちゃんと写ってるかね」床にうずくまって放心《ほうしん》している花音里に声をかけると、黙ってポラロイドを突き出した。  一枚目は俊一のはだか、未菜の顔は切れている。  二枚目はカメラ目線で驚愕《きようがく》している俊一と、未菜のバストアップ。  三枚目は両手で顔と股間《こかん》を隠《かく》している俊一、逃げ出そうとしている未菜の背中。  四枚目には俊一しか写っていない。部屋から飛び出た未菜を追いかけようとしているのか、横向きの裸体だった。  弦一郎は写真を鞄《かばん》にしまって、椅子に腰を落とした。  隣室で音がして、瞳が壁に耳をつけると、ドアが閉まる音につづいて絨毯《じゆうたん》を踏む音が部屋のまえを通り過ぎた。 「行っちゃったよ!」  瞳はクラッカーを鳴らすように叫んだが、だれの口からも歓声《かんせい》はあがらず、ただ安堵《あんど》の溜《た》め息が洩《も》れただけだった。 「成功だった。みんなご苦労さま。これからホテルのレストランに行ってもいいし、ルームサービスをとってもいい、どうするかね?」弦一郎は立ちあがって四人の気を引き立てようと明るい声を出した。 「ここで食べようよ。なんか、ホテルのレストランとかってキンチョーするし、ね」とまゆが同意を求めると、三人とも反対する素振《そぶ》りを見せなかったので、弦一郎はまゆにメニューを渡し、彼女たちが口々にいう、ハンバーガー、ステーキ、鮨《すし》、オムレツ、フルーツの盛り合わせなどをメモし、ルームサービスのボタンを押して注文した。 「ねぇねぇねぇ、どんなだった?」瞳が未菜をせかした。  未菜は弦一郎のシナリオ通りに進行したテレビドラマに主演したような気分だった。指示されたホテルのラウンジで待っていると、弦一郎がいった通り、約束の時間ぴったりに現れた俊一が、「行こうか」と短くいって伝票をつかんだ。  部屋に入るなり冷蔵庫からビールを取り出した俊一に、「なにか飲む?」と訊かれたので未菜が首を振ると、「じゃあ、先にシャワーを浴びなさい」俊一はクローゼットからバスローブを取り出して未菜に手渡した。洗面所でブラジャーをはずした瞬間|動悸《どうき》が激しくなり、シャワーを浴びながら立っていられないほどからだがふるえ、バスルームがサウナのように息苦しく感じられたので、すぐにシャワーを止めてバスタオルでからだを拭《ふ》いた。パンティを穿《は》いた未菜は持ち運びやすいようにワンピースのなかにブラジャーを入れて小さく折りたたんだ。そしてトイレの蓋《ふた》に腰をおろし、クライマックスの撮影《さつえい》を待つ女優のように集中しようとした。  部屋に戻ると、ビールを呑《の》んでいた俊一は「よし、入るか」と気合いを入れて立ちあがった。バスルームのドアが閉まり湯が撥《は》ね散る音を確認してドアを開け、廊下で待ち構えていた花音里にキーと服と靴を手渡した。  未菜はバスローブから両腕を抜いてベッドに仰向《あおむ》けになり胸もとまでシーツを引きあげて、俊一の登場を待った。まゆと花音里がうまく入ってきて写真を撮れたとしても、俊一に取り押さえられたらどうすればいいのか。その場合はとなりの部屋から弦一郎がやってきて、すべて自分が仕組んだ冗談だということにしてくれるということになってはいるが、動悸はますます高まり胸の内側からハンマーで殴られているようだった。  未菜はバスローブ姿の俊一がベッドに近寄ってくるのを見て、からだを硬くした。俊一は眼鏡をはずしてサイドテーブルに置くと、スタンドの灯《あか》りだけを残して部屋を暗くした。未菜はまゆと花音里がドアを開ける音を聞き洩《も》らすまいと耳だけに意識を集めて、瞼《まぶた》を閉じた。いきなり唇に唇を押しつけられ口のなかに舌を入れられ、首筋を舐《な》められ、両手で乳房を揉まれ、片方の乳首を強く吸われた。俊一の愛撫《あいぶ》は二年まえ高一の男の子にされたときのように荒っぽく、「痛いッ」と声をあげると、「あっ、ごめん」と顔を離したが、すぐにまた乳首を口に含んで吸いはじめた。そのときドアがひらく音がして、「脱いで」と口走った未菜の言葉に刺激されたのか、俊一は上半身を起こしてバスローブを脱いだ。瞬間、フラッシュが焚《た》かれ、ひぇっと叫び声をあげた俊一が飛び起き、未菜は急いでシーツをはがして上半身をレンズのまえに曝《さら》し、二度、三度、フラッシュが光るのを確認するとベッドを飛び出し、花音里が開けてくれたドアから隣室に駈け込んだのだった。  二台のワゴンで料理が運ばれてきて、弦一郎は伝票にサインすると、「さぁ、誕生会をはじめよう」とわざとらしく声をかけ、四人はいっせいに食べはじめた。  ステーキを切っているまゆがナイフをふりかざしながらいった。 「部屋んなかに入ったとき、チュパチュパとかエッチな音が聴こえて、なんか、もうマジやられちゃってんのとか思ったけど、タイミングとかわかんないじゃん、じっとするしかないみたいな? そしたらあのオヤジ起きあがったじゃん。いまだ! と思ってシャッター押したら、オヤジが変な声で叫んで、チョーあせりまくってさ、でも役目だとか思って、四回? シャッター押したら未菜が部屋から飛び出たから、ワッて逃げたんだよね」 「花音里的には、あんなに驚いた顔、見たことないよ。だって、あのオヤジの顔、ホラー映画みたいでさぁ、こっちのほうが心臓止まるよって感じ? でもマジ笑えたね。最初こうやって、顔とアソコ隠《かく》したじゃん。そのあとぉ、股間《こかん》にアレはさんでぇ、頭悪いっていうか、だってシーツにもぐればいいじゃん。あれ猿っていうかぁ、そうだ、マントヒヒに似てなくない? 踊《おど》るマントヒヒみたいな? あんときは笑ってる余裕なかったけど、マジ笑えるよね。瞳ぴゃんにも見せてあげたかった」 「ポラ、見せてくれませんか?」とハンバーガーと鮨を交互に食べていた瞳が、弦一郎に顔を向けた。  花音里の話を聞いているうちにすっかり不愉快な気分になっていた弦一郎は、聴こえなかったふりをして窓の外に目をやったままでいたが、「見せてくれてもいいじゃないですか」ともう一度せがまれて、しかたなく鞄から写真を取り出して渡した。未菜以外の三人は写真を見て笑い転げ、弦一郎はまゆが写真の男を梓の父親だと気づいていないことにわずかな慰《なぐさ》めを感じて洗面所に行った。  弦一郎は動かなくなるまで洗面台の蛇口《じやぐち》をひねって湯の音で笑い声を掻《か》き消し、鏡に映った自分の顔を見た。湯気で鏡一面が曇るように後悔の念がひろがり、莫迦《ばか》ッ、思わず声に出しそうになったとき、鏡に未菜の顔が浮かんだ。 「なんだか虚《むな》しいよね」湯気のような声だった。 「あぁ、思ったより楽しくなかった」  虚しさなのか後悔なのか、それとも弦一郎に対する憐《あわ》れみなのか、顔を合わせればわかるような気がしたが、振り返ることはできなかった。  小春日和《こはるびより》を英語でなんといったか、町内を散歩していた弦一郎はふと立ち停まって考え、そう、インディアンサマーだ、と空を見あげた。小津安二郎《おづやすじろう》に、たしか『秋日和《あきびより》』という映画があった気がするが、定かではない。もしかしたらちがうタイトルだったかもしれないと、最近記憶力の衰《おとろ》えを感じることが多くなっている弦一郎は、むきになって思い出そうとしたが、脳細胞は眠ったままだった。『彼岸花《ひがんばな》』だったかもしれぬ。 [#1字下げ]今日は小春日和ですね  妻が生きていたとしても、こうはいわなかっただろう。やはり小津の映画で三宅邦子《みやけくにこ》が上品に微笑《ほほえ》んで口にするのが相応《ふさわ》しい。昭和三十年代の山の手ではこんなあいさつがごく自然に交《か》わされていたのだろうか、それにしてもさほど熱心な映画ファンでもなかったのに、近ごろよくむかしの映画を思い出す。三十年以上まえの映画の一シーンが自分の体験のように鮮明に浮かんでくるのだ。ふとしたことで原節子《はらせつこ》や、デビューしたてのスーザン・ストラスバーグの顔を思い出すだけで涙ぐんでしまう。  路上に封を切っていない煙草《たばこ》が落ちている。弦一郎はとっさに拾いあげて歩き出し、拾うときに〈PHILIP MORRIS〉という文字を読んだのだが、ショートピースしか吸わないのにどうするつもりか、とポケットに入れて苦笑した。インディアンサマーの日にフィリップモリスを拾った、と口にしてみたが、面白くはない。  玄関の様子を窺《うかが》いながら、弦一郎は自分で新宿のポストに投函し昨夕届いていた速達を素早くポケットから取り出して郵便ポストに入れた。ふたたび玄関に顔を向けたが出てくる気配はないので、深呼吸してポストから封筒《ふうとう》を抜き取った。  居間では俊一がゴルフ番組を観ていた。 「どうしたんだ、今日は」 「勤労感謝の日ですよ。お父さんはいいですね、毎日が休日だ」俊一はテレビを観たままいった。  横着な奴だ、と弦一郎は思ったが、そんな態度をとれるのもいまのうちだぞ、と聞き流して、「速達だ」とテーブルのうえに封筒を置いた。  俊一は熱心に観ているわけでもなさそうなのに、画面から目を離そうとはしない。 「フィリップモリスだが、よかったら吸わんかね。あぁ禁煙中だったか」弦一郎はポケットから煙草を取り出した。 「どうしたんです」と首をひねったときに、目の端で封筒をとらえた俊一は、宛名が自分だと気づいてはじめてテーブルに向き直った。手にとって封を切り、弦一郎が梓のワープロで打った脅迫状《きようはくじよう》をひらこうとして、封筒のなかの写真を引き出すと、バネ仕掛けの人形のように立ちあがって硬直した。 「どうした」弦一郎はのんびりとした声で訊いた。  俊一は顔をぶるっと振り、もつれる足取りで夫婦の寝室に向かい、あわててドアを閉める音がして、トイレに駈け込んだ。 「どうしたんですか」俊一のあとを追うように寝室から出てきた佐和子が訊ねた。 「下痢《げり》じゃないか。自分の部屋をトイレと間違えたらしい」 「バカなこといわないでくださいッ」佐和子はトイレに行ってドアをノックし、「あなた、だいじょうぶですか」と声をかけた。  なんと気弱な奴だ、それこそ洩《も》らしているにちがいない、弦一郎はホテルで後悔したことなどすっかり忘れてほくそ笑み、食卓に腰を落ち着けて、「お茶でももらおうかね」と機嫌良く声をかけた。 「いいお天気ですね」台所に立った佐和子も明るい声を張った。 「小春日和《こはるびより》だな」 「なんです、小春日和って、もう冬じゃありませんか」佐和子は弦一郎のまえに湯飲みを置いた。 「今日のような日のことだ」 「それをいうなら、秋日和でしょ。小春日和は、春の暖かい日のことに決まってるじゃありませんか」 「小春日和はだな、陰暦《いんれき》で十月のことをいう」 「へぇ、なんですか、陰暦って」 「俊一は、だいじょうぶか?」 「下痢でしたね」佐和子は、よっこらしょっと、と立ちあがってトイレに行き、「あなた、だいじょうぶですか? トイレットペーパー足りてます?」と大声を出し、「だいじょうぶだ。そこに立つな」と俊一のくぐもった声が聞こえ、「なんですか、立つなって」、「ひとがしてるときにトイレのまえに立つんじゃないっていってるんだ! 行け!」、「まぁ、心配してるのに」という聞くに堪《た》えない夫婦の会話に、弦一郎はゆったりとした気分で耳をそばだてていた。 「なんです、陰暦って」ふくれっ面をした佐和子が食卓に戻ってきた。 「月の満ち欠けの周期をもとにした暦《こよみ》だ」といったもののそれ以上知識がないので、「小春日和をインディアンサマーというのは知ってるか?」弦一郎は話を逸《そ》らした。 「へぇ、インディアンのほうは、いま時分夏なんですか?」  なぜ初冬の暖かい日のことをインディアンサマーというのかと問われたら、弦一郎は答えに窮《きゆう》するしかない。自分の無知を認めたくないがために、とことん質問をして相手を追い詰める奴がいるが、佐和子はその典型だ。 「インディアンサマーというのはだな、それより俊一、ちょっと長過ぎやしないか」  佐和子が立ちあがったとき、俊一がトイレから出てきた。 「だいじょうぶ?」と佐和子が額《ひたい》にてのひらをあてようとすると、俊一は顔を背《そむ》けて、「ちょっと気分が悪い」と寝室のほうへ向かった。弦一郎は、おい救急車呼ぶか、といいたかったが、それはいい過ぎだと思い直して茶を啜《すす》った。予想以上のショックを与えたようだ。  俊一を寝かしつけて居間に戻ってきた佐和子は、湯飲みから手を離して腰をあげた弦一郎に訊いた。 「インディアンサマーってなんでしたっけ?」  こんなに青い空は見たことがない、と未菜は思った。遠くに雲が一片浮かんでいるだけで、ハイビジョン映像のように不自然なほど青く、とても十一月の空には見えない。朝、保健室に行って、わきのしたにはさんでおいた使い棄てカイロで体温計を38・5℃にしたら、風邪《かぜ》薬を飲まされてしまったので感覚が麻痺《まひ》しているのかもしれない。昼休みまで寝ていたのだけれど、保健室を休憩と仮眠に利用している生徒たちが増えてきたので屋上にきた。  あの男はあれからずっとうちで暮らしている。いままで八年間暮らしていた女にはどう説明したのだろう。一日に一度は女のところへ立ち寄っているらしいが、夜にはかならず帰ってくる。母以上に女から責め立てられているのかもしれない。あの男は未菜が七歳のとき、灯りを消して出て行った。うちのなかだけではなく、未菜のこころを暗闇にした。未菜は真っ暗闇のなかで階段をのぼるしかなかったが、いまは立ち停まっている。どこまでのぼったって出口などないのだ。あの男は帰ってきて、もう一度灯りを消した。なるべく部屋から出ないようにしているが、夜中に廊下をすれちがった弟の目は蛍光塗料《けいこうとりよう》を塗っているように光っていた。きっと弟には、未菜のほうが発光して見えたにちがいない。あの男は母の八畳間で布団を並べて寝ている。ダイニングのテーブルを壁に寄せれば寝るスペースぐらいできるはずだ。母は同じ部屋で寝起きしている理由を監視のためだと弁解するつもりだろうが、未菜にはセックスのためだとしか思えない。あの男は八年つづいた女に飽きて、残り火のような性に新鮮な歓《よろこ》びを感じているのかもしれない。  ときどき八年ぶりの父親役を楽しんでいる素振《そぶ》りを見せる。今朝も、目玉焼きの白身だけを食べ、黄身を歩の皿にのせたら、「嫁に行くまでに偏食《へんしよく》なおせよ、そんな偏食じゃあ、子どもの教育はできないぞ」といった。自然に口を衝《つ》いたのではなく、声に出すまえに何度も口のなかで練習したような変な節《ふし》がついていた。血脈《けつみやく》の執着があるとは驚きだったが、たとえ百歳まで生きてもおじいちゃんと呼ばれることはない。あの男と差し向かいの、終わりがないように思える堪え難い三十分間、未菜は、なにをいわれても頬《ほお》の筋肉さえびくつかせたくない、神経以外は、と樹のように背を伸ばし、トーストにイチゴジャムを塗って怒りとともに噛《か》みくだした。  ポケットから煙草《たばこ》と百円ライターを取り出し、火をつけようとしたが風が強くてつかない。てのひらで覆《おお》っても駄目だ、未菜は唇から煙草を抜きとって細かく千切って風に投げた。鈍痛《どんつう》がからだのどこかを走り抜けた気がして、病院のベッドにいるまゆのことを考えた。手術は午前中だといっていた、そろそろ麻酔《ますい》から醒《さ》めるころだろう。  未菜は耳栓《みみせん》かウォークマンでもしているかのように背中を丸めて歩き、フェンスをまえにして顔をあげた。いまの三年生が入学したころはフェンスなどなかったが、飛降り自殺をした生徒がいて、フェンスをつくったのだという。こんなフェンス、のぼろうと思えばかんたんなのに、と未菜は上履きを履いたまま途中までよじのぼって校庭を見おろした。  校庭にはだれもいない。すべてがいつも通りに見えたが、気のせいか夢のなかのようにほんのすこし歪《ゆが》んでいる。異様《いよう》な静けさが未菜の心臓を脈《みやく》打たせた。未菜はフェンスからおりて目を瞑《つむ》り、用心深く目を開けた。  頭上から風を切る音、灰色の塊《かたまり》が青空を落下していく。落ちているのは目と口を大きくひらいた背広姿の男だった。いつの間にか男から未菜と同じセーラー服姿の少女に変化し、ゆっくりと脚から落ち、大きくひらいたスカートと髪が落ちていくことに抵抗して風を巻き起こしている。スカートが胸のあたりまでまくれあがりレースの縁取《ふちど》りの白い下着とへそが覗《のぞ》き、突き出た細い脚にはルーズソックスを穿《は》いている。そして一回転し頭がしたになって急に加速し、コンクリートの地面が迫ったとき、未菜は自分が落ちているのだと気づいて手脚をばたつかせた。風を切るごうっという音だけになった。  目を開けると光が翻《ひるがえ》り、金属バットが振りあげられた。陽光《ようこう》を反射し、バットの先端はふるえている。未菜は反射的に顔を覆おうとしたが、両腕が動かない。大声で叫びたかったが、声が塊となって口のなかに閉じ込められている。バットは打ちおろされた。輝く銀色の閃光《せんこう》、そして瑠璃《るり》色の空を染めるストロベリー色の飛沫《ひまつ》。ドラッグを吸引したときのようにつぎつぎと現れる幻覚《げんかく》に頭を絞《し》めつけられ、未菜は救いを求めるように両手を空に向けた。  風に流されてきた産声《うぶごえ》で鼓膜《こまく》がふるえ、生まれたばかりの赤ん坊が宙に浮かんだ。小さな気球のような赤ん坊がとても懐《なつ》かしく思えて、未菜は微笑みかけた。自分に赦《ゆる》しを与えてくれそうな赤ん坊が、瞬《まばた》きひとつで終末《しゆうまつ》を告げる恐ろしい姿に変容してしまう気がして、未菜は目をひらいたままでいたが、赤ん坊は青空に溶け、あとには白い雲だけが残った。  すべての力が抜けて両手をおろすと、全身に筋肉痛のようなだるさが襲《おそ》いかかってきた。未菜はゆっくりと浅い呼吸をくりかえしてうめき声を発し、もう一度、顔を空に向けてから目を開けた。  潮が引いた砂地のように茫漠《ぼうばく》とひろがっている青空に赤い筋が引かれていたが、それは血ではなく落日《らくじつ》の最初の兆《きざし》だった。  未菜は枯葉《かれは》のようにかさついている唇を舌で舐《な》めた。これからどうなるのだろう、一分先のイメージさえ湧いてこない。こうしていても未菜の時間は一秒一秒、屑《くず》やガラクタのように投げ棄てられていく。未菜が自分の生の空洞《くうどう》に目を凝《こ》らすと、痛みが弔《とむら》いの鐘《かね》のように外界《げかい》に反響しているような、外界が未菜の虚無《きよむ》を映しているような奇妙な感覚に囚《とら》われた。校門の横に植わった桜の樹や遠くのビルや家屋さえも痛みに堪《た》えてじっとしているように見える。どこに着地させればいいかわからない痛みと苦しみの落ち着き場所を捜して、未菜のこころは青空をぐるぐると飛翔《ひしよう》した。声が聴こえる。風の音ではなく、たしかに澄《す》んだ少女の声だ。校庭にはだれもいない。となりの西校舎の屋上からのような気もするが、ひとの気配はない。屋上の真ん中に立って耳を澄ましても、声だけが響いてなにをいっているのかはわからない。哀《かな》しみを訴えているようにも、救けを求めているようにも聴こえる。いままでは聴こうとしなかっただけで、学校という場所には孤独な生徒の挽歌《ばんか》のような声が木霊《こだま》しているのかもしれない。西校舎の屋上でも、だれかが、こちらの屋上に耳を澄ましているとしたら?  未菜は鉄の扉をひっぱって開けた。鉄の扉は風に押されて勢いよく閉まり、校舎内に不気味な音を反響させた。未菜は黒い霧《きり》がたちこめているような階段をおりていった。  弦一郎が現金の入った封筒を渡すと、三人はそれぞれのバッグのなかにしまって曖昧《あいまい》な笑みを交わし、札《さつ》を数えている未菜に視線を集めた。 「十万だったよね?」未菜は封筒を弦一郎のまえに放り投げた。 「いくら?」瞳が訊《き》いた。 「二十万。返しなよ、十万」未菜は三人に刺すような視線を送った。 「でも、くれるっていうんだし、もらってもいいじゃん。二十万あればほしいもん買えるし、冬休み、旅行とかに行けるもん」瞳は膝《ひざ》のうえのバッグをかかえ込んだ。 「すっげぇエラソー、なんで未菜のお金でもないのに、そんなこという権利とかあるわけ? エラぶるのもいいかげんにしなよ!」花音里がぶつけるようにいった。  未菜は花音里たちが素顔に戻ったのだと思った。コギャルではなく、何年か先の顔、現実の砂をかぶった灰色の顔をしている。蜃気楼《しんきろう》から舞い戻ったのだ。 「犯罪だよ? 万引きとかとちがうんだよ。援交なんかともちがって、下手すると退学だし、家裁《かさい》に送られたらどうすんだよ」 「いってること、ぜんぜんわかんない。だって、どうして十万ならよくって、二十万だったら犯罪なの? 十万でも二十万でも犯罪は犯罪じゃん。ガタガタいうのおかしいよ! そんなにいうんだったら、未菜だけ返せばいいじゃん。ねぇ、まゆぴゃん」  弦一郎が二十万という金額を持ちかけたとき、未菜はあくまで十万でいいといい張り、弦一郎にしてみれば堕胎《だたい》費用と、未菜にまとまった金を学費として渡せばいいのだから、どちらでもかまわなかったのだが、昨夜十万ずつ封筒に入れたあと、思い直して追加した。弦一郎には未菜がなぜ執拗《しつよう》にこだわっているのか理解できなかった。十万も二十万も罪であることに変わりないというのは花音里のいう通りだし、だいいちだれが困るというわけでもないのだ。弦一郎は未菜をなだめるように口をはさんだ。 「ま、いいじゃないか。それに犯罪だなんて思わないほうがいい。みんなは手伝っただけで、わたしが計画したちょっとした悪戯《いたずら》に協力しただけ、アルバイトだと思ったほうがいい」 「ちょっとした悪戯に協力しただけで、どうして二十万ももらえるの?」未菜は容赦《ようしや》ない口調でいった。 「ムカツク! 頭おかしんじゃない? うちらは二十万もらうから、ほしくないんなら返しなよ! マジキレるよ!」花音里が目を吊《つ》りあげた。  未菜は自分が言葉を知らないのだと思った。自分の考えを相手に理解してもらえるような言葉、話しかたを知らないのだ。どう考えても花音里のいっていることのほうが筋が通っているように聴こえるにちがいない。ジグソーパズルを埋めるのは、現実との一ミリの距離を縮めることができるのは、言葉しかないのだ。 「うまくいえないんだけど、花音里が自分のために稼《かせ》いだ金だったら、文句とかいわないよ。でも今度のはさ、まゆの手術のために援交《えんこう》やるしかないって考えたんじゃなかった? それがさ、オイシイ話が飛び込んできて、なんか見えなくなったっていうか、話がちがうほうにいっちゃったんだよ。だけど、まゆの分だけもらって、みんな返せば、すっごく気分いいかもしれないし、楽しいことしたみたく、笑える気がしたんだよ。でもさ、二十万とかもらっちゃうと、これからまじめにやるのがバカバカしく思えるっていうか、今度またオイシイ話がくれば、飛びつくよね。どっかのオヤジの財布から金抜き取ってバイバイするかもしれないよね。もしさ、バイト行って日給四千円なのに一万もらったらオカシイって思うじゃん。あれ? 変だなって。変だとか、オカシイって思う気持ちがたいせつなんだよ。変だって思わないと、どんどんズレちゃって、ほんとどこまで行くかわかんないよ」  未菜の話にはなにか重要な意味があるような気はしたものの、三人にはそれがなんなのかわからなかった。向こう岸からなにかを叫んでいて、それは自分たちに深くかかわることなのかもしれないが、わけのわからない手旗《てばた》信号のようにしか思えない。 「四千円の約束で一万もらえれば、チョーラッキーじゃん、ねぇ?」花音里は不安そうにまゆと瞳を見た。 「変だと思っても、あたしはもらうな」まゆがいった。 「どうしてですかって、一応訊いてみるかもしんないけど」瞳が言葉を継《つ》いだ。  さっきから聴こえているのは、なんて曲だろう、知っているはずなのにタイトルを思い出せない。未菜は耳を澄《す》ましたが、もうメロディーさえ辿《たど》ることができなかった。もうカラオケで歌わなくなるかもしれない、と未菜は思った。これからは歌詞でもメロディーでもなく、自分の言葉で話すしかないのだ。 「うちの父親の会社倒産するんだ。学校やめなくちゃいけないかもしれない。だからってわけじゃないけど、あたし援交するしかないし、たぶんウリやらないとやってけないと思う。二万か三万か知らないけど売春するんだよ。だから今度の話は、これやったら、なんだってやれるじゃんとか思って、やったんだ。恐喝《きようかつ》できれば援交なんて軽くやれるって。でも、まゆにも瞳にも花音里にも援交なんてやってほしくない。十万返せば、これから援交したくなったとき、やめようって思うかもしんないじゃん。今度のことさ、一生に一度の面白い冒険だったって思えれば、これからオイシければなにやってもいいって思わなくなるかもしれないし。ほんとは、もうどうなってもいいやって感じするけど、なんかそう思ったんだ」  未菜は静かに言葉を閉じた。  三人は凍《こお》りついたように未菜を凝視《ぎようし》している。  弦一郎はなにかいいたかったが、なんの言葉も思いつかなかった。ただわかったのは、自分もまた金をなにかの暗喩《あんゆ》にして生きているということだった。目のまえに二十万が入った封筒が落ちているが、これもなにかの暗喩に過ぎないのだろう。  花音里がバッグから封筒を取り出して、未菜との距離を縮めていった。 「これ、カンパ。学校やめてほしくない」  スクランブル交差点の赤信号で立ち停まった未菜は、うつむいて靴の先で地面を蹴《け》るすねた男の子のような仕種《しぐさ》をくりかえした。  カラオケボックスを飛び出た未菜を追った弦一郎は、まるで恋人を追いかける若者のような行動を自嘲《じちよう》しないでもなかったが、どうしても未菜をひとりにしておくことができなかった。  車道がわの信号が黄色に変わったとき、「車で送って帰るよ」と弦一郎は未菜の同意を待たずにタクシーに向かって手をあげた。  ふたりは後部座席に並び、「どこかね?」弦一郎が訊くと、未菜は、「帰りたくない」といった。弦一郎はミラー越しに怪訝《けげん》そうな眼差《まなざ》しを寄越している運転手と目が合って、未菜に向き直った。「ホテルにでも泊まるか」ほかに方法はない、弦一郎は未菜も運転手も誤解しないでくれればいいと思いながら、さりげなく訊いた。未菜がうなずいたので、サラリーマン時代に何度か利用したことがあるホテルの名を運転手に告げた。  弦一郎は背中をシートに預けて、明日からは未菜に出逢う以前よりさらに、辛く冷え冷えとした日々になるだろう、と外を流れる夜を眺めた。 「いっしょに泊まるんだよね」 「いや、帰るよ」弦一郎は未菜の脅《おび》えた目が自分の横顔に注がれているのを感じた。 「ひとりで泊まりたくない」未菜は小さな声でいうと、弦一郎のかさついた手をぎゅっと握った。 「べつの部屋をとるけど、それでいいかね」弦一郎は家に帰りたくないのは自分のほうかもしれないと思った。  未菜は首を横に振った。  沈黙が未菜と弦一郎を遠くに隔て、弦一郎はふたりに接点があると思い込んだこと自体、錯覚だったような気がしてきた。フロントガラスに細かな雨粒が降りかかり、滴《しずく》となって流れ出したとき、タクシーはホテルに停まった。  入ってすぐのところにあるエレベーターのまえで、「ここで待ってなさい」と小声でいったものの、「いや、いっしょでいい」だれが援助交際をすると思うだろうか、それほど老人なのだと苦い顔をして、弦一郎は未菜と肩を並べてフロントへ向かった。「ツインで一泊」といって、差し出された宿泊者カードに住所と名前を記入しながらフロントマンの表情を窺《うかが》ったが、別段|怪《あや》しんではいない。  エレベーターをおりた未菜は、ふたりの靴音を吸い込む絨毯《じゆうたん》のうえを歩きながら、道行《みちゆ》きをしているような、どこに向かって歩いているのかわからない不安に駆《か》られていた。  部屋に足を踏み入れた未菜はベッドを見おろした。この老人とふたりきりで朝まで過ごすのだということがなまなましく迫ってきた。 「どうしたんだ。座りなさい」  未菜はベッドの端に脚を組んで座ったが、すぐに脚を揃《そろ》えて両手で膝頭《ひざがしら》を握りしめた。 「さて、なに食べようか」やや不器用にいってサイドテーブルのうえのホテルガイドを手にとり、「中華、和食、たしかフランス料理は大嫌いだったね、しゃぶしゃぶ、すきやき、鮨《すし》、イタリアンもある。今日は贅沢《ぜいたく》しよう」弦一郎は愉快そうに声をかけた。 「なんでもいい」 「じゃあ、和食にするか」弦一郎は立ちあがってコートをハンガーにかけると、キーだけを上着のポケットに入れてドアを開けた。  長い廊下を歩き、ロビーとはべつのエレベーターを使ってレストランが集まっている別館に移り、懐石《かいせき》料理の店に入った。  ふたりは案内されたテーブルに向かい合って座った。 「なんでも好きなものを頼みなさい」  未菜はメニューをめくった。 「すごい高い」 「今日はいい。そうだな、わたしが決めていいね?」  未菜がうなずくと、弦一郎は仲居《なかい》を呼び、未菜に懐石コースを、自分には刺身《さしみ》盛り合わせと茶碗蒸《ちやわんむ》しと日本酒を頼んだ。  料理が運ばれてきて、未菜は前菜を食べはじめ、弦一郎は鯛《たい》の刺身を箸でつまんでワサビと醤油《しようゆ》をつけてからいった。 「実は働いてるというのは嘘《うそ》なんだよ」 「嘘?」 「いや、嘘をつくつもりはなかった」弦一郎は茶碗蒸しの蓋《ふた》を開けた。 「働いていた会社の名前は嘘ではない。ただ、定年退職したことをいいそびれてしまった」 「定年退職ってそんな恥ずかしいこと? 倒産よりうんとマシだと思うけど」 「五年まえに妻を亡くし、いまは息子夫婦と梓と同居している。わたしは二階で暮らしている。べつに嫁と折り合いが悪いというわけではないんだが、わたしが偏屈《へんくつ》なんだろう、食事もコンビニで買ってだね、いつもひとりでしている。まぁ、つまらん話だが」 「コンビニのもの食べてるなんて面白いよ。毎日、つまらないの?」未菜は弦一郎の話に耳を傾《かたむ》けながら、つぎからつぎに出される料理をおいしく食べている自分に驚き、なんだかおとなになったような気分だった。 「不幸せってこと?」 「不幸せではない、世の中にはもっと不幸せなひとはたくさんいる。だが、幸せというのがなにかを手にすることだとすれば、わたしの手のなかは空っぽだ。だれだって、起きて寝るだけの生活を何年もくりかえすなんて堪《た》えられんだろう?」  五十歳も離れているのに、どうしてこんなに考えていることが似ているのだろう。逢ったときから感じていたのだけれど、残された時間が少ないという焦《あせ》り、自信のなさ、世の中になにも期待しないで滅《ほろ》びを待ち望んでいるような、そういう投げやりなところが似ている、と未菜は思った。 「なんか、してみたいことないの?」未菜は弦一郎には視線を向けずに、春菊《しゆんぎく》と松茸《まつたけ》の和《あ》え物を見詰めた。 「どこか、知っているひとがだれもいない町に行って、アパートを借りて、なんでもいいから仕事を見つけて、死ぬまでの数年間だけ、もうひとつの人生を生きてみたいとは思う。未菜ちゃんはどうだね?」  やってみたいこと、それはいなくなることだ。家からも学校からもいなくなり、もう二度とだれにも姿を見られなくなること。このひとが願っていることと似てはいるけれど、ちがう。自分は完全にいなくなりたいのだ。家族や同級生の頭のなかだけに、箪笥《たんす》や冷蔵庫を移動したあとにうっすらと残る影《かげ》に似た汚れのように、ほんのしばらくのあいだ不在として存在するにしても、その場所にもやがてなにかが置かれるだろう。この世に在るものはすべて変換《へんかん》可能なのだ。完全にいなくなる、そういうことを夢みることはある。  未菜はデザートのメロンを食べ終え、弦一郎はグラスの底に残った吟醸酒《ぎんじようしゆ》を口に含んだ。  鍵穴にキーを入れてなかに入ると、今度は弦一郎が部屋の空気がひどく緊張しているということに気づいた。 「シャワー浴びるね。歯も磨《みが》きたいし」未菜が弦一郎のまえを横切った。  バスルームから響いてきた湯が撥《は》ね散る音を聴きながら、弦一郎はネクタイとワイシャツのボタンをはずしてハンガーにかけた。そしてミニボトルのウイスキーをコップに注ぎ、ひと口呑んだ。他人から見れば毎日が休日なのだろうが、弦一郎にとってはこの三週間こそ束の間の休暇《きゆうか》だった。バケーションというべきか、それともレジャーのほうがぴったりくるか? いっとき盛んにいわれたレジャーは、そうそう、だれだかが、余暇《よか》を利用して行う自己実現のための活動だとか吐《ぬ》かしおった。もうひと口呑んで、「V・A・C・A・T・I・O・Nタノシイナ」と小さくつぶやいた。  バスローブを身につけ、濡れた髪をターバンのようにタオルで包んで、未菜が出てきた。 「眠たければ遠慮しないでいい。休みなさい」 「起きてるの?」 「もうすこし呑んで、寝る」  ベッドのなかにもぐり込んだ未菜は、眠る努力をしなければと背中をまっすぐにしたが、頭のなかで色とりどりの不安が渦巻《うずま》いて横になったまま立ち眩《くら》み、ベッドから落ちそうな気がして枕にしがみついた。 「もう十二時か」弦一郎は半ばひとり言のようにいってベッドに腰をおろし、「電気消すか」とスタンドの灯《あか》りだけを残して横になった。  真夜中の湖上に漂《ただよ》うボートのように白く浮かびあがったベッドのなかで、ふたりはべつべつの小舟に乗り込んで流されていくような不安と淋しさを覚えていた。  弦一郎はきっと眠れないだろうと思ったが、なにもこの娘をつきあわせることはない、しばらくじっとしていれば眠くなるだろう、と目を閉じた。 「セックスしてもいいよ」  未菜の声が羽根のように弦一郎の目のまえに舞いあがった。  あれはいつだったろう、猫を飼っていたことがある。寝ているときに胸に飛び乗ってきた猫が顔をすり寄せてくるたびに、弦一郎はすぐさまはらい退《の》けたものだった。なんだって一方的なものは困る、からかわれているとしか思えないじゃないか。聴かなかったことにして眠ってしまおうかとも思ったが、未菜のほうに顔を傾けた。 「できないな」  未菜は起きあがり、弦一郎のベッドにからだをすべり込ませた。  まだ濡れている髪のシャンプーの匂い、そして膚《はだ》から立ちのぼる石鹸《せつけん》の残り香に鼻腔《びこう》をくすぐられ、離れなければと動いた拍子《ひようし》に手の甲が未菜のからだのどこかに触れたが、弦一郎はその手を自分の胸のうえに置いた。  あの猫は死んだ。弦一郎が知ったのは死んでから二週間経ってからだった。妻は何日も塞《ふさ》ぎ込んでいたが、気づこうともしなかった。それどころか、もう飼うなよ、と節子にいったかもしれぬ、たぶんいったのだろう。なぜ自分は節子の日々の楽しみや苦しみを理解してやろうとしなかったのか、莫迦《ばか》ッ、弦一郎は胸の内で叫んだ。 「さっき、どっか遠い町で暮らしたいっていってたよね。あの話して」 「どこか海のある小さな町で、いや町より島のほうがいいかもしれない、家が四十戸ぐらいしかない小さな島だ」  弦一郎は考えたこともない島のことを眠気を誘うような声でぽつぽつと語った。 「この歳だ、漁《りよう》には出られないから、畑でも分けてもらって、細々とな、自給自足《じきゆうじそく》で野菜をつくって」  老人のメルヘンのようにも、惨《みじ》めな末路《まつろ》のようにも思えたが、弦一郎は話しつづけるしかなかった。 「野菜と、魚と米を交換してもらえば生きてはいけるだろ」 「いっしょに行っていい?」  歯磨《はみが》きの匂いがする息が顔にかかるのを感じながら、弦一郎はふたりの生活を夢みた。 「その島から高校に行くか」 「楽しそう」  ふたりは声を合わせて笑った。言葉をくぐり抜けて、ほんとうにいいたいことのほうへ進んでいるのではなく、ただ浮標《ブイ》のようにひと言ひと言が波間《なみま》に揺れるだけだった。  それぞれが自分ひとりの夢のなかを漂いはじめたような沈黙がつづいた。  この娘がひとりで生きていける歳になるまでなんとかしてやろう、きっとこの娘に話したら拒絶されるだろうが、なに、おとなには知恵がある、近いうちに母親に逢って話してみよう、この娘に気づかれない方法はいくらだってある、と弦一郎は思った。これこそほんとうの援助交際というものだ。  未菜は弦一郎の肩に額をくっつけ、片手を弦一郎の胸のうえに置いて眠っていた。寝息とともに部屋中にやわらかな虚無《きよむ》がたちこめていく。弦一郎はそっと五本の指で未菜の前髪を撫《な》でおろした。  時計を見ると、まだ四時まえだった。瞼《まぶた》を開けようとすると、頭蓋《ずがい》が崩れるような痛みとノイズが襲《おそ》ってきた。ベッドのしたにウイスキーの瓶《びん》が転がっている、一本空けてしまったのだ。時間がアルコールの濁流《だくりゆう》で押し流され、未菜と一夜を過ごしたことが何年もまえの出来事に思える。  昨日ホテルで目を醒《さ》ましたのは午前四時ごろだった。未菜はいなかった。サイドテーブルに、未菜が眠ったあとバッグに入れておいた二十万円と二百万円の封筒が置いてあった。メモに書かれていたのは、十万円だけもらいます。先に帰ります。ありがとう。さようなら。それだけだった。  カーテンを引くと、外はまだ暗く、柿《かき》の樹がつぎの季節を待つのは堪え切れないとでもいうように街灯《がいとう》のあかりを受けてシルエットになっていた。余計なことをしてしまった。堕胎《だたい》の費用や学費の心配などしなくても、彼女たちはきっとなんとかしていたのだ。妻を亡くした直後に退職してからというもの、意味のない生活、根拠のない生のなかで、だれかに必要とされたいと切望《せつぼう》していたからだろうが、いい気になり過ぎた。生きるとは無意味な現実を受け容れることだ、とわかってはいてもつい焦《こ》がれてしまう。もう一度ウイスキーを呑んで眠るしかないと思ったが、どんなに呑んでも酔えない気がした。弦一郎はオーバーをつかんで部屋を出た。  まだ暗い住宅街のなかを出口を求めるように歩き、どこを目指していいのかわからないままいくつもの角を早足で曲がった。弾《はず》む息と靴音だけが耳に響き、腿《もも》の筋肉が痛み出したかと思うと心臓にも痛みが走った。弦一郎は暗い沼のようにしか見えない小さな公園に入り、ベンチに座って肩で息をした。ふくらはぎが痙攣《けいれん》している。鼓動《こどう》と呼吸が落ち着くと、寒さと頭痛が襲ってきて、弦一郎は目を瞑《つむ》った。夜が明けるまで時間を潰《つぶ》す、ただそれだけのことだ。いずれにせよ、夜は明ける、そうしたら立ちあがればいい、みんなが目を醒ますまえに、そう思うとすこし安らぎ、埋もれた記憶の数々が意識の底でせめぎあって立ちのぼってきた。  あら、あなた、お帰りなさい、遅かったじゃないですか、節子の声が足踏みオルガンのように響いてきた。いつも弦一郎自身より、弦一郎のことをよく知っているといわんばかりに会話のいたるところに、あら、あなた、をちりばめ、はっきりとは言葉にしないいくつもの含みを漂わせた。一瞬、弦一郎は妻の肉体の感触に全身を包み込まれた。なかに入っていくと、節子はいつも引き潮のように静かにからだを波打たせた。小さな顎《あご》にふっくらした唇、その唇だけがひらいて長い吐息《といき》を洩《も》らしたが、顔全体は霧《きり》のようで輪郭《りんかく》すら描けなかった。  目を閉じたままあくびを噛《か》み殺し、小さな溜め息を洩らしたとき、弦一郎さん、と梓のだか未菜のだかわからない声に呼びかけられ、六十五年のあいだに出逢ったさまざまなひとの声が蘇《よみがえ》ったかと思うと大勢でぺちゃくちゃしゃべりはじめた。弦一郎を取り囲んで自分たちだけで話している、まるで葬式に集まったひとびとのように。  やはりひどい霧のなかにいる、眠い、弦一郎の意識は遠のいた。がくんと頭を倒し、はっとして顔をあげると、斜《なな》めまえのベンチに黒い塊《かたまり》が座っている。自分がここにくるまえからいたのだろうか、それともうつらうつらしているあいだにやってきたのだろうか、弦一郎はその塊に目を凝《こ》らした。ホームレスだ。  灰色になった空にカラス、雀、鳩などの鳴き声がばら撒《ま》かれ、公園の周囲を取り巻くマンションや家々がぼんやりと浮かびあがってきた。  頭《こうべ》を垂《た》れている。眠っているのか。男の姿は滑稽《こつけい》なほど小さくみすぼらしく梟《ふくろう》のように見えた。  しばらくすると空は灰色から白に変わり、新聞配達の青年の自転車が公園のまわりを一周するように通り過ぎたちょうどそのとき、男は悪夢から放り出されたようにあたりを見まわし、ベンチに寄りかかって手に触れられる唯一のものをつかんだとでもいうように両手を握り合わせた。  垢《あか》と泥《どろ》で焦《こ》げ茶に変色したおそらくベージュだったジャンパー、口もとまでマフラーを巻きつけ、腰には前掛けに見える布切れをぶら下げ、指先が黒くなった軍手をはめている。ベンチの脇には折れて骨が飛び出た蝙蝠傘《こうもりがさ》とふたつのビニール袋が置いてある。  公園の脇に停めてあったライトバンにエンジンがかかり、仕入れかなにかに出かけるのだろう、走り出した。近所の老人が公園の外の道を行き来しはじめる。弦一郎はかじかんだ両手をこすり合わせて口もとに持っていき、はぁっと息を吐《は》きかけた。  男は立ちあがり、ベンチのまわりを歩きはじめた。それは五、六分だったが、弦一郎には果てしなく思えた。男は灰皿スタンドを覗《のぞ》き込んだ。ようやく意味のある行動をしてくれる、煙草を吸いたいのだ、と弦一郎はなぜかうれしくなった。しかし覗いただけで吸《す》い殻《がら》をつまみ出そうとはせず、突然鳥かなにかを空中に放してやろうとするかのように両手をあげた。弦一郎にはその動作がなにを意味するのかまったく見当がつかなかった。男はベンチに座ってしばらく動かなかったが、今度は軍手をはずして数分後にまたはめてはずすという動作をくりかえしはじめた。  ふいに立ちあがった男は公園の外に出て右のほうへ歩き出した。荷物を置いたままだから戻ってくるにちがいない、と弦一郎が思った通り、しばらくしてゴミ袋を引き摺《ず》って戻ってきた男は長い時間、剥製《はくせい》の熊のように立ち尽くしていた。弦一郎はわずかな動きも見逃すまいと注視した。ベンチに座った男は袋を開け、なかから缶コーヒーを取り出して握りしめた。今度こそコンビニの弁当でも捜し出して食べるのだ、弦一郎は身を乗り出した。しかし男は缶を袋のなかに戻して立ちあがると、ゴミ袋を引き摺って公園の外に出て行った。この男の行動、一挙手一投足《いつきよしゆいつとうそく》にはなんの意味もない! 弦一郎は低く激しくうめいた。だれかを、なにごとかを待っているのか? もう一度うめいた。なんの意味もない!  冬の朝陽《あさひ》が洗いたての白いシーツのようにひろがっていく。ベンチに戻ってきた男は頭を垂れ、動かなくなった。どこからか鳩が数羽舞いおりてきて、ベンチとベンチのあいだをせわしなく行き来して弦一郎の視線を遮《さえぎ》り、餌《えさ》を催促するように嘴《くちばし》で砂をつついた。痩《や》せ衰《おとろ》えた斑猫《ぶちねこ》がゆっくりと公園を横断し、マンションや家々のカーテンが引かれたかと思うと、窓ガラスに朝陽が反射してきらめいた。弦一郎は公園の真ん中に時計台があることにはじめて気づいた。六時十六分、ぴくりと進んで十七分を指した長針をにらみつけた。弦一郎は吐き気がしてうつむき、男と同じ格好になったが、目は瞑《つむ》らなかった。  公園の外をジョギングするひとの脚が通り過ぎるのを見た。犬と飼い主の脚が公園のなかに入ってくるのを見た。水飲み場の蛇口《じやぐち》から光そのもののように水が噴き出すのを見た。頭を垂れた犬がぺちゃぺちゃと音をたてて舌で水を飲むのを見た。いつの間にか公園のなかに入ってきただれかの脚が空き缶を蹴り、空き缶までもが陽気な音をたてて日光を反射しながら転がっていくのを見た。そして柵《さく》の向こうを急いで通り過ぎるサラリーマンの脚を、学生の脚を、弦一郎は見た。  弦一郎は朝の光のなかで自分の染《し》みだらけの手の甲を見た。目を落とし、靴の先を見た。気のせいか寒さは増し、耳朶《みみたぶ》と鼻の先が針で刺されたように痺《しび》れている。腰をあげようとすると、全身が打ち身だらけのように痛み、動くことができなかった。  結局、と頭のなかでつぶやいたがそのあとの言葉は押し戻した。目を閉じて、ベンチの背に頭をもたせかけた。弦一郎は瞼《まぶた》の薄い幕越《まくご》しに太陽を見ていた。目は閉じていても赤い斑点《はんてん》がひろがり、昇っていくのがわかった。瞼の閉じ目から涙があふれるのを感じ、喉《のど》から洩れる嗚咽《おえつ》を耳にしたが、哀《かな》しくはない。自分の感情にさえ置き去りにされた弦一郎は、この世と自分をつなぐ最後の扉の把手《とつて》が消えてしまったのを感じた。  光は公園をズームアウトするように、弦一郎を取り残し街へとひろがっていった。 [#改ページ] [#2字下げ] 少年倶楽部 [#地付き]水曜日[#「水曜日」はゴシック体]   電車の音が近づいてくる。自転車置場に屯《たむろ》していた少年たちの甲虫《こうちゆう》類に似た漆黒《しつこく》の目が光り、いっせいに改札口に向けられた。祐治《ゆうじ》はそれが合図だとでもいわんばかりに口のなかのチューインガムをくちゃくちゃと噛《か》みはじめ、駿《しゆん》と直輝《なおき》と純一《じゆんいち》は味のしなくなったガムを、ひとさし指に巻きつけていた銀紙に吐《は》き出し、背後に投げ棄てた。三人の少年は同じ動作をしていることに気づいていない。  駿が無意識のうちに自転車のベルを鳴らしても、三人の目は改札口に突き刺さったままだ。爪先《つまさき》立っている駿の身長はまだ百四十センチに届いていない。階段をあがってくる靴《くつ》音が、少年たちの胸を直《じか》に打った。だれかの胃がひどく間抜けた音をたてた弾《はず》みで、右脚を踏み出した直輝が足下《あしもと》に転がっていた空き缶に蹴躓《けつまず》いた。一瞬三人は直輝に視線を移すが、ふたたび自動改札を通って出てくる乗客に目を凝《こ》らした。  駿はズボンの左ポケットに手を突っ込んで、アストロブーメランの前輪を指で転がし気分を落ち着かせようとした。緊張や手持ち無沙汰《ぶさた》を感じると、タイヤとモーターを改造したばかりのミニ四駆を指先で弄《もてあそ》ぶのが癖《くせ》になっていた。入試ノトキコイツヲモチコメルダロウカ。四人は七ヵ月後に中学入試を控《ひか》えている。ひと月に数回不安が錐揉《きりも》みしながら鳩尾《みずおち》までおりてくる。駿は汗ぐっしょりのからだを硬くした。  最初に自動改札に定期を入れた乗客はワイシャツ姿のサラリーマンだった。つづいて男、男、中年の女、男、老夫婦、男、そして若い女、少年たちは顔を見合わせ「ババアじゃん」という祐治の声で緊張をほどいた。「いいのいねぇな」祐治は声変わりしたばかりの低い声で嘯《うそぶ》いてくすくす笑い、純一のスニーカーに自分のスニーカーの先を押しつけ、純一は直輝の脇腹を小突《こづ》き、駿は左手をポケットから出したものの、その手をどうしたらいいかわからず拳《こぶし》で自転車のハンドルをたたくと前輪が向きを変えた。 「あっ」直輝が小さな叫び声をあげて祐治の背に隠《かく》れた。 「なんだよ」 「お父さん」 「どこに」 「あそこだよ、あれ、ちがうかぁ」 「死ねよ、びっくりさせんな、この駅でおりるわけねぇだろう」と祐治が股間《こかん》をつかむと、直輝は悲鳴をあげて腰を引き、三台の自転車を倒した。「騒ぐのまずいよ」と純一が声をひそめ、少年たちは自転車を起こした。  改札に目を戻し、もう乗客は全員出てしまったのだろうとあきらめかけたとき、女子高生が階段をあがってきた。三人は祐治の顔を見る。祐治がうなずいたので歩きだそうとすると、階段を駈けあがる音がしてもうひとりの女子高生が定期を振り翳《かざ》しながら現れた。祐治は改札を出るふたりを目で追い、両腕で罰点《ばつてん》をつくった。 「もう一本待つ?」直輝がシュートするように空き缶を蹴《け》ると、弧《こ》を描いて横断歩道に落ち、音をたてて転がっていった。 「帰ろうか」駿はアストロブーメランのタイヤを回転させた。  純一は定期入れのなかから時刻表を取り出し、 「つぎは三十三分、あと七分だけど」 「もう一本待つ」祐治があっさりと断《だん》を下した。  少年たちのからだからは電車がホームに到着したときの緊張感は消えていたが、八つの黒い裂《さ》け目のようにきらきら光る目はなおも駅に向けられていた。 「あっ、X‐ファイル、ビデオるの忘れた」  |顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》から両側の頬《ほお》を伝って汗が流れ落ちたが、駿はパーカを脱がない。今朝母親に着せられたTシャツが気に入らないのだ。黄色ト青ノストライプナンテユルセナイ。 「おれ、母ちゃんに頼んどいたからだいじょうぶ」そういった純一と、駿はこの三人のなかで一番仲が良かった。直輝は祐治のいいなりだったし、祐治はふざけているときでも油断すると本気で殴ってくることがあるからだ。だからといって祐治を憎んでいるわけではない。こころのどこかで腕力によって生み出される秩序に執着していた。 「怪奇倶楽部《かいきくらぶ》の予告みた? ピアノ弾く吸血鬼の女の子、ちょっとかわいくなかった?」 「おまえあんなのが趣味なの、だっせぇ」直輝が嗽《うがい》するような声で笑ったので、純一はしばらく沈黙したあと、「塾さぼったの連絡いってないかな」と話題を変えた。 「田川《たがわ》が電話するかもしれないぞ、おまえんちに」といって祐治はいきなり駿にヘッドロックをかけてきた。「やめろよぉ」駿はもがき、すぐに力を抜いて両腕を垂《た》らした。力を入れればその分だけ首が絞《し》まるからだ。 「田川ってババアみたくおしゃべりだからな」直輝はガムを唇にはさんだ。  田川|亜美《あみ》はどんな些細《ささい》な事件、噂でも聞きつけ、あっという間に学年中にいいふらすという評判だった。だが幼稚園からずっといっしょだった駿は、亜美が親や教師に告げ口などしないことを知っていた。ソレニシテモ塾マデ同ジナンテツイテナイ。亜美は学校でも塾でも平気で話しかけてくるので、どうやって無視するかが問題だった。  祐治は首にまわした腕に力を込めたが、駿が抵抗しないので腕をほどいた。駿には祐治の青いTシャツに滲《にじ》み出ている汗が悪魔の形に見えた。 「田川って胸でかいだろ、おれ、五年のとき見たぞ」直輝は自転車の籠《かご》に入れていたデイパックをつかんで、地面に置き、今度はハンドルにかけた。そして屈《かが》み込んで靴紐《くつひも》をほどき、結び直しはじめた。直輝はいつもからだのどこかしらを動かしていて、周りにいる者まで落ち着かなくさせる。 「ウソ、ナマで」祐治が片方の目を吊《つ》りあげた。 「なわけねぇだろ、ブラでーす」 「家に連絡されるとまずいな。小遣《こづか》い削られちゃうよ、おれ今月苦しいんだ」純一はTシャツの衿《えり》ぐりにひっかけていた眼鏡を手にとり、目から少し離して改札を眺めた。 「式部《しきぶ》、さっきゲーセンでいくら使った?」祐治がのんびりと訊《き》いた。 「六百円、かな、わかんない」純一は急にそわそわして塾のマークがついた鞄《かばん》を開けて、参考書やノートを出したり入れたりした。 「式部っていつもリッチだよな、今度ゲームおごってよ」  純一は三千円だが、直輝と駿は千五百円、祐治は月千円しか小遣いをもらっていない。 「エイプレなんかさぁ、ワンコインでクリアしなきゃ、金いくらあっても足んないよな」祐治が顎《あご》を引いた。 「高梨《たかなし》、クリアしたことあんの?」直輝はわざとらしく目を見張った。 「決まってんじゃん。まともに闘っちゃ駄目なんだよ、パターンよ、パターン、ダァーッといってさ、エイリアン燃やしまくるんだよ」そういって祐治は直輝の肩をたたいた。 「でもあれってさぁ、敵がエイリアンとか兵士とかしかいないし、つまんなくない? おれはやっぱりあれ、パワードギアだなぁ」純一はTシャツの裾《すそ》で眼鏡を拭《ふ》き、「あの音楽最高だよね」とゲームをクリアしたときに流れるメロディーを頼りなく辿《たど》った。目のまわりにうっすらと、鼻柱《はなつぱしら》の左右にはくっきりと桃色の痕《あと》がついているのは、肥《ふと》り過ぎで眼鏡が顔の肉に食い込んでいるせいだ。直輝がガムを膨《ふく》らませようとして失敗し、おならそっくりの音を口から洩《も》らすと、少年たちは唇を窄《すぼ》めて何度もその音を出し、笑いこけた。  今日は塾をさぼろうなんて思ってなかったのに、と駿は後悔していた。駅の近くにあるゲームセンターで遊んでいるうちに授業がはじまる六時を過ぎてしまい、結局休むことになった。塾に行く途中四人でゲームセンターに寄るのは、去年の冬期講習から月に一度の割合で習慣化していた。いつもは塾の時間に合わせて切りあげるのだが、さぼるのはこれで二度目だ。  純一と〈闘神伝2〉で対戦していると、高校生の男がふたり近づいてきていきなりコンパネに煙草《たばこ》を押しつけて焦《こ》がした。退《の》けという合図だ。駿は攻撃ボタンから離した右手をポケットのなかに突っ込み、アストロブーメランを握りしめた。外に出ても、授業は三十分過ぎただけなので、家に帰るわけにもいかず四人は途方に暮れた。駿はゲームセンターの電飾《でんしよく》をにらみつけている祐治が、あの高校生を相手に喧嘩《けんか》する気なら自分も両脚にタックルして思い切り噛みついてやるのに、と四人で血塗《ちまみ》れになるまで痛めつける図を想像した。しかし勝ち目がないというあきらめが高校生への憎悪をあっさりと逸《そ》らした。四人は塾を休んだ後悔と陰気に膨《ふく》れあがった欲求不満を解消する捌《は》け口が欲しくて、ゲームセンターのまえから動こうとしなかった。そしてだれかがこの場を救う名案を出さないものかと互いの表情を探りあった。駿はいち早く、しょうがないよ、とこころのなかでつぶやき、歩き出した。祐治は商店街の自動販売機のまえで立ち停まり、コーラおごって、とてのひらを出して純一を見た。まわし飲みしているとき、「おれこないだ塾の帰りさ、女のあとつけたんだよ」直輝がしゃべりはじめた。 「どんどん暗い道に入っていってさ、ふたりっきりじゃん、おれどきどきしてさ、すっげえエッチなからだなんだよ、ノーブラで白いTシャツだから乳首もろ見え、スカートはさぁ、お尻が隠《かく》れるか隠れないかぎりぎりんとこ」  駿が、なんでうしろからつけてるのに乳首が見えたんだよ、と茶化《ちやか》そうとしたとき、「じゃあ四人であとつけて触っちゃおうぜ」祐治がにやりと笑った。三人はコーチの作戦に耳を傾《かたむ》けるという素振りで祐治を取り囲んだ。 「駅の改札から出てくる女のあとをつけて暗い道でみんなで触りまくるんだよ」祐治は素っ気なくいって空き缶を屑入《くずい》れに投げ入れた。 「できないよおれ」純一が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「こうやるんだよ簡単だろ」祐治はうしろから直輝を抱きすくめて胸を揉《も》み、直輝は「いゃあんやめてぇ」と身悶《みもだ》えてから「だれかきたら逃げちゃえばいいんだよ」と笑った。  駿はゲームでいえばステージ2くらいの難易度だろうと考えた。相手ガ隙《すき》ノアル技ヲダシタトキニ狙《ねら》ウ。ジャンプ攻撃ナドカラ連続技デ狙ウ。足払イ系カラノリバースハイキック。等々攻撃の基礎を口に出そうとしたが、そのときには三人とも駅に向かって駈け出していた。  電車がプラットホームに停まると、少年たちは緊張を取り戻して、ファミコンのリモコンを手にしたときのように身構えた。白いブラウスに黒いボウタイの制服の女子高校生が膝《ひざ》上二十センチのプリーツスカートを翻《ひるがえ》して目のまえを通り過ぎた瞬間、口をきく間も目配《めくば》せを交《か》わす間もなく、祐治は歩き出し、三人も弾《はじ》かれたようにあとを追った。  女は車がこないことを確認して赤信号を落ち着いた足取りで渡り、フラワー通りのアーケードに入っていった。果物屋、文房具屋、コーヒーショップ、花屋などさまざまな店が並んでいるが、酒屋以外はみなシャッターをおろしている。  四人は解き放たれた猟犬《りようけん》がばらばらに獲物を追い詰めているようでもあり、また揺《ゆ》れるプリーツスカートに誘《いざな》われて夢遊歩行《むゆうほこう》しているようにも見えた。アーケードの蛍光灯《けいこうとう》に青白く映《は》える脚が駿の目を奪いつづける。アノ脚ガナニカヲ放射シテボクノ頭ヲヘンニシテルノカモシレナイ。アーケードの外の通りは暗く静まり返っていた。脚は突き当たりの家の塀《へい》に沿って曲がっていった。  なだらかな坂をのぼると右手に造成中の空地があり、その先には石の階段があることを少年たちは知っていた。塾で居眠りをすると階段のうえまで走らされるからだ。女と少年たちのほかは、だれもいない。白いブラウスが闇に浮いている。肩で切り揃えた髪が歩くリズムで揺れ、うなじがちらちらと垣間《かいま》見える。女は石段に脚をかけ右、左、右とあがってゆく、プリーツスカートがリズミカルに上下し、駿は尻がスカートから飛び出すのではないかと感じた。石段のしたからその奥を覗《のぞ》こうとしても、スカートが巧妙に駿の視線を遮《さえぎ》る。腕、腰、尻が弾《はず》み、ふくらはぎが魚のように跳ね、プリーツスカートが波打つ。  階段をあがると左右に民家が連なり、女は生け垣に囲まれた二階家の鉄柵《てつさく》を開けようとしているところだった。少年たちが不意の終点で立ち竦《すく》んだとき、女は振り返った。そして安堵《あんど》の表情を浮かべてゆっくりと鉄柵の内側へ入っていった。四人は自分たちが子どものせいで無視されたのだと思い、その屈辱で急速に興奮が凪《な》いでいくのを感じた。 「すっげぇブス。触んなくてよかったな」祐治は無理矢理|拵《こしら》えた笑みで顔をひきつらせた。 「でもさ、ともさかりえに似てなかった?」興奮が残っている純一の声は上擦《うわず》っていた。 「死ねよ、ブータ、どこがだよ」直輝はからかう気になれないのかうつむいたままいった。 「似てんのは髪型だけだよ」祐治は顎《あご》をしゃくって歩き出した。  空地に差しかかると直輝が、「ちょっと待って、いいや先行って、わりぃやっぱ待ってて」と雑草を掻《か》き分けてなかに入っていった。 「どうしたの」純一が声をかけると、「しょんべん」と短パンのチャックをおろして振り向き、いきなり放尿した。三人は足にかからないよううしろに飛び退《の》いた。最初に祐治がからだをふたつに折って笑い、駿と純一も噴き出した。直輝は回転しながら放尿し、自分でも我慢できなくなって笑い出した。 「やっべえ、十時半!」と腕時計を見て叫んだのは純一だった。  四人は駅を目指して走った。  暑く湿った風が団地の間を吹き抜け、歩道橋のうえを歩く駿の神経をいじくりまわす。駿はポケットのなかのアストロブーメランを握って、母親へのいいわけを苦心して考えている。やっぱりコンビニで漫画を立ち読みしてたっていうしかないな、一時間以上もコンビニにいたってことになるんだ、何読んでたって訊《き》かれたらどうしよう、ジャンプとマガジンと、ジャンプは机のうえにあるから駄目だ、コロコロコミックはコンビニに置いてないし、チャンピオンだな、駿はチェッと舌打ちをして重いからだを引き摺《ず》るようにして歩道橋の階段をおりた。  団地はどれも同じつくりで区別がつかない。しかし駿が棲《す》む七号棟のまえには大きな公孫樹《いちよう》があるのではじめて訪問するひとも迷うことがなかった。この一帯には街灯《がいとう》がない。駿は塾の帰りに団地のなかに入ると、何かの霊につけられている気がして仕様《しよう》がなかった。だからいつもうしろからついてくる霊の存在に怯《おび》えてつんのめるように歩く。  エレベーターを利用せずに階段を使うというのは駿と母親との間で取り交わしている約束のひとつだ。母親はだれかに聞いた受験は体力勝負だという言葉を信じて実行させているのだが、駿は身長が伸びるのではないかと考えて五階と一階の間を日に何度ものぼりおりしている。  チャイムを鳴らすと、扉の向こう側からバタバタと足音が近づいてきて、勢いよく扉が開いた。 「しゅんちゃん遅いじゃない、どこで何してたの、お腹すいてるでしょ、しゃけあるからお茶漬けで食べちゃいなさい」  駿はちらりと母親を見て、 「いらない」 「じゃあそのままお風呂入っちゃいなさいな」 「姉ちゃんが先」 「今日塾の日じゃないもの、理和《りわ》はもう寝てるわよ、十一時よ、しゅんちゃんほんとにどこ寄ってたの?」 「コンビニで漫画読んでた、お父さんは?」  駿は父親がまだ帰宅していないこと、最近父親の帰宅時間を巡《めぐ》ってふたりが喧嘩していることも知っていたが、話題を逸《そ》らすために訊《き》いた。 「まだなのよ、接待で遅くなるんですって、いったいどこのだれを接待してるんだか」母親の鼻腔《びこう》が僅《わず》かに膨《ふく》らんだのを駿は見逃さなかった。母親は冷たくなったと思えばまた優しくなるといった気まぐれな態度で駿に接した。優しくなるのは父親が不在のときだ。つい、二、三年まえまで、駿がこの世について知っていることはすべておとなから聞かされたことばかりだった。駿は自分自身では何ひとつ判断せず、とりわけ母親の言葉は頭から信じ、母親が父親を罵《ののし》ればいっしょになって軽蔑した。しかし最近は、顔を合わすことが少なくなった父親よりも、台所に立つ母親の針金のように細くて強情《ごうじよう》なうしろ姿に嫌悪感を覚える。 「お父さんが帰るまえにお風呂入っちゃいなさいよ」  駿は返事もしなければ振り返りもしないで部屋の鍵《かぎ》を閉めた。暗闇で追った女子高生の背中が蘇《よみがえ》り、突き飛ばされたようにベッドに倒れた。目の奥でタータンチェックのプリーツスカートがまだ揺れている。車酔いしたときと同じ気分だ。目を瞑《つむ》る。揺れるスカートが空地と公園を通り過ぎ石段をあがってゆく。駿はブリーフに左手を入れた。ソウダ空地デヤルベキダッタ。もう一度引き返す。スカートのしたから脚が伸び空地で止まる。空地には廃車が二台|雨曝《あまざら》しになっている。ドウシテデキナカッタンダロウ、ダッセエ。ふたたび動き出して階段をあがったところで終点、振り返って微笑《ほほえ》む女──、手が精液で濡れている。駿は起きあがってズボンといっしょに汚れたブリーフを脱ぎ、屑《くず》入れとしていつも椅子の背にかけてあるコンビニの袋に突っ込み、塾の鞄《かばん》のなかに隠《かく》した。明日ドコカノゴミ箱ニステル。箪笥《たんす》の引き出しから取り出した新しいブリーフに足を通すと、何もする気が起きないほどの虚《むな》しさが襲ってきた。辛うじて気分を変えてカレンダーをめくった。まだ七月だというのに十二月までびっしり予定が書き込まれ、そのとなりに前回七月七日の公開模試の成績表も画鋲《がびよう》で貼《は》りつけてある。〈さらに努力を! 8月のテストで合格圏へ!〉偏差値は五十三、第一志望校の桐蔭《とういん》は五十八なければ合格できない。駿は塾の参考書をひらいた。 〈(図1)のように1目が1cmの方眼《ほうがん》があります。Aから矢印のように順に方眼を1個ずつぬることにしました。たとえば、方眼を5個ぬったとき、(図2)のようになります。下の問いに答えなさい〉  駿はこの問いを声に出して二度くりかえし、参考書を閉じて顔をあげた。そしてお年玉で買った通販のダンベルを両の手に持ち、シューシューと息を吐きながらゆっくり上げ下げした。  不意にノックの音。 「ちょっと開けてちょうだい、カルピス持ってきたから」 「いらない!」 「何いってんの、もうつくっちゃったんだから飲みなさい、早く開けて」  駿はダンベルを机のしたに隠して参考書をひらいてから、鍵を開けた。母親は盆のうえに、グラスの縁《ふち》まで氷が入っていていまにもあふれそうなカルピスをのせている。駿が受け取ろうとすると、 「おっと、こぼれちゃう」  母親はひと口|啜《すす》り、 「そういえば亜美ちゃんから電話あったわよ」と秘密めいた顔でいった。右の眉を二度ぴくぴくと動かすのは、亜美からの電話を取り次いだり伝言を伝えたりするときのお定《き》まりの表情だ。まさかあいつ、駿は左足の先で右足の踝《くるぶし》を擦《こす》りながら顔を背《そむ》けた。 「なにしてるのよ、ほら、早く取って。ほんとに夜食はいらないのね」  やはり告げ口したのではなかった。駿はグラスをつかんで口紅がついていないほうに口をつけて一気に飲み干し、廊下に出た。 「別に用はないんだって、明日学校で話すっていってたわよ。電話やめなさい、もう遅いんだから」 「風呂だよ」  駿は風呂場に入るなり湯温も確かめずに浴槽《よくそう》にからだを沈めた。暑さと疲れのためからだも頭も洗う気になれず、ただ自分の両脚を眺めている。からだのうえのほうに視線を移す。浴槽はいつの間にか窮屈《きゆうくつ》になっていた。世界ハダンダン狭クナル。 「しゅんちゃん、寝巻と下着ここ置いとくわね、よく洗いなさいよ」  磨《す》りガラスの向こうで動いている母親の影が消えるのを見計らって、駿は浴槽から出ると股の間に直接|石鹸《せつけん》をなすりつけ洗い流し、湯を頭からかぶった。  外に出て、裸のままドライヤーで髪を乾かしていると、 「お父さんが帰ってきたから早く出なさい」  母親が扉を開けた。先刻とは打って変わって不機嫌な声だった。  駿はかっとして、 「ノックぐらいしろよ!」母親の顔にドライヤーの熱風を吹きつけた。 [#地付き]木曜日[#「木曜日」はゴシック体]   朝食を食べないで家を飛び出た駿は、ローソンでメロンパンを買い、旧校舎の中庭で食べていると、三組の井手《いで》、矢島《やじま》、谷《たに》、運動会の騎馬戦《きばせん》のあと担任の木下《きのした》に〈肉弾三勇士《にくだんさんゆうし》〉と名づけられた三人が直輝を小突《こづ》きながら現れたので、駿はあわててもう何年もまえから使われていない兎小屋《うさぎごや》の陰に隠《かく》れた。  井手が直輝の肩をつかみ、 「チョウセンジンだってばらされたくなかったらさぁ、少しばっかお金貸してもらいたいわけなんだな、これが」  直輝は唇を噛みしめて井手の顎《あご》のあたりを見ている。油蝉《あぶらぜみ》の鳴き声が急に遠退《とおの》いた。 「チョウセンジンだってわかるとまずいんじゃないの、おたく。だって隠してるんだもんね、木村だなんて名前つけちゃってるけど、ほんとはキムなんだってね。ぼく聞いちゃったの。ねぇ、キムさん、どう、一万円で手打ってあげてもいいよ」  油蝉が耳のなかに飛び込んだような気がして頭を振り、こ指で耳の穴を掻《か》きまわした。中庭には陽が射したことなど一度もないと思えるほど冷《ひ》んやりとしている。ここで涼《すず》めるとわかっていても滅多《めつた》に生徒たちが訪れないのは、昔この中庭で五年の女の子が自殺したという噂があるからだ。生徒たちはその噂を信じていた。噂は二年、三年生によって新入生に確実に伝えられていく。それにしても寒い、駿は直輝から目を離さずに鳥肌《とりはだ》の立った腕を摩《さす》った。 「わかったわよねぇ、二、三日待ったげるわ、あたしこう見えても怒らせると恐いのよ、あんたのおかまほっちゃうかもよーん」井手がしなをつくると、他のふたりはけたたましい笑い声をあげた。ドウシテ直輝ガチョウセンジンナンダロ。  午後になって気温があがり、教室のうしろの掲示板にかけられている温度計は三十五度を超えていた。  汗がゆっくり脇腹を流れ落ちていくのがわかる。暑さは毛布のように駿のからだをくるみ、息をするのもやっとだった。外は静まり返っている。どこか遠くで水の音がした、つづいて歓声《かんせい》、五年生がプールでクラス対抗リレーをやっているのだ。しばらくしてまた飛び込む音。駿は水飛沫《みずしぶき》をたてて泳ぐ自分を思い描いた。頭を低くさげて水に飛び込む、両手をぴんと伸ばして水中にもぐり、二かき三かき、そして力強いストロークで一気に二十五メートルを泳ぎ切り、海豹《あざらし》のように水を滴《したた》らせてプールサイドにあがり、そのまま腹這《はらば》いになってからだを乾かす。  五年生の夏、飛び込みに挑戦した。どうしても腹を打ってしまいうまくできなかったせいもあって、スイミングスクールに行きたい、そう母親にいうと、塾の全国模試の志望校別の順位が五百番以内だったらね、といわれた。駿は夏期講習で一番授業数の多いカリキュラムを選び、九月の模試で四百五十三位になったことを報告すると、桐蔭《とういん》に合格したら水泳部に入って好きなだけ泳ぎなさい、と母親はあっさり約束を破った。あのとき、駿は自分の両手のひとさし指から二本のレーザー光線が発射され、母親の顔を貫くのを見た。かっと見ひらかれた目から火炎《かえん》が噴《ふ》き出し、鼻も唇も黒|焦《こ》げになってぼろぼろと崩れていった。母親はすぐに蘇《よみがえ》ったが、攻撃はいつか効果をあらわすにちがいない、身長が百七十五センチになったらと駿は確信した。だから、ババアはめやがったな、と軽い調子でいい、笑って許してやったのだ。だが駿はPTA副会長の母親が、疲れて受験勉強に差《さ》し障《さわ》りがあると困るという理由で、六年の体育の授業から水泳をなくすという卑劣な技を使うとまでは思わなかった。  もう六時限目だというのに、駿の吐き気は一向におさまらない。給食に出たコッペパンと牛乳と冷凍みかんはなんとか飲み下したものの、にんじんといんげんの入ったクリームシチューだけはどうしても口に入れることができなかった。この学校には給食を残してはいけないという規則がある。食べ残すと、机のうえに銀盆《ぎんぼん》を置いたまま午後の授業を受けなければならない。そのうえ放課後に残したものを配膳室《はいぜんしつ》に持って行き、給食のおばさんに謝らなければいけないのだった。  給食の時間が終わりかけたころ、駿はシチューを飲み下し、担任にばれないようにゆっくりと廊下に出て、便所に駈け込んだ。そして便器の蓋《ふた》を開けるなり胃のなかのものを吐いた。鼻を衝《つ》く強烈な臭気《しゆうき》で気を失い、膝《ひざ》が崩れて便器に顔を突っ込むはめになるのではないかという恐怖で、吐くことを中断してトイレットペーパーを千切り取って口を拭いた。吐き気はすぐに戻ってきた。残りのシチューが喉《のど》から飛び出そうとしてもがいている。駿は左手の指を三本喉の奥に突っ込んだ。ブーンと低く唸《うな》る音、頭のまわりを蠅《はえ》が旋回しているのか、神経がふるえているのか、どちらにしても近づいたり遠ざかったりする耳障《みみざわ》りな音がする。ウルセェンダヨ。目を瞑《つむ》ったまま何度か吐こうとしたが、涙と鼻水が垂れるだけだ。駿は腰をあげて手の甲で口を拭《ぬぐ》い、水洗レバーを上履《うわば》きの爪先《つまさき》で押した。ブーンという唸りが駿の頬《ほお》を掠《かす》って、ぎらつく緑色の蠅が壁に貼《は》りつき、足を擦《こす》り合わせた。駿は蠅の動きを注視しながら音をたてずに扉を開け、外に出た。教室に戻っても吐き気はおさまらなかった。  駿は黒板の上にある時計の秒針をにらみつづけている。授業が終わるまであと二分、先生の許可を得て便所に行かなくても済みそうだと口を噤《つぐ》み左手で胃を押さえた。  チャイムが鳴った途端嘘のように吐き気が引いた。  上履きを下駄箱に放り入れ、簀《す》の子《こ》のうえでスニーカーを履《は》いて外に出ると、駿は強烈な陽射《ひざ》しに立ち眩《くら》んだ。とっさに口に手をあてたが、吐きたいわけではなく暑さのせいだと気づいて、よろよろと校門に向かった。すぐあとからだれかが早足で近づいてくる。だれか、振り返る気力はない。フリカエッタラ背後霊ダッタリシテ。 「気分でも悪いの?」  立ち塞《ふさ》がったのは亜美だった。駿は亜美が自分より八センチも背が高いことにいまさらのように気づき、首を上下に揺らして「なんか、すげぇ気持ち悪い、食中毒かも」と掠《かす》れた声でいった。陽はほぼ頭の天辺にあり、ふたりは陽光に無防備のまま向き合った。 「日曜日、うちにこない? あたしひとりなの」  駿には亜美が何をいっているのかさっぱりわからない。運動場がハレーションを起こすほど明るくなり、亜美のからだは輪郭《りんかく》だけになった。唇が綿菓子《わたがし》でも食べている感じで動いている。約束、亜美は右手の拳《こぶし》を突き出し、ゆっくりおや指とこ指を立てて、ぴょんぴょんわかった、と兎《うさぎ》の耳を真似て動かした。ナンダロウ、ソウカ、幼稚園ノコロソウヤッテ約束シテタンダ。駿がうなずこうとしたとき、亜美はもう一度、ぴょんぴょんとおや指とこ指を上下させて、バイ、くるりと背を向けて校門へ歩き出した。亜美は何を約束させようとしたのか、思い出そうとして首を傾《かし》げると、両耳に熱い息が吹きかけられた。こいつ感じてやんの、祐治と直輝が左右から顔を突き出した。面白いもんみせてやるから、という直輝の誘いに好奇心が湧かないわけでもなかったが、それより家に帰って眠りたかった。しかし亜美のことでさんざんからかわれ、直輝の家に遊びに行くことを断り切れなかった。  駿たちが二階の直輝の部屋に直行しても、直輝の母親は姿を見せようとはしなかった。 「この部屋はさ、もとはひとつの部屋だったんだけど、兄ちゃんが中学入ったとき、ジジイ説得してふたつの部屋にリフォームさせたんだ」 「おまえの母ちゃん最高な、部屋に入ってきて変な質問しないし」祐治がいうと、「兄ちゃんがさ、ババアにがつんといったんだよ、絶対無断で入るなって」と得意気にいい、階下におりていってコーラのペットボトルとポテトチップスの袋を持ってきた。 「兄ちゃんはさ、ババアの子どもじゃないんだ」 「どういうこと」駿が訊いた。 「兄ちゃんの母親はガンで死んじゃって、それでジジイはババアと再婚して、おれが生まれたんだってさ」そういって直輝は立ちあがり、「いいもんみせてやる」と扉の把手《とつて》をつかんで、ス・ゲ・エ・ン・ダと尻を振ってから部屋を出た。  直輝の部屋は、駿の部屋よりひとまわり大きく八畳はありそうだ。それなのにベッドと机以外のスペースは物で埋め尽くされ、窮屈《きゆうくつ》に感じられる。  祐治はTシャツを脱いだ。腕と胸の筋肉が音をたてたような気がして駿は思わず目をしばたたかせた。 「おれ鍛《きた》えてんだ」と祐治はボディービルダーを真似て胸の筋肉を動かしてみせた。 「どうやって」と訊いた自分の声がいかにも子どもっぽく甲高《かんだか》かったので、駿は気の抜けたコーラを飲んで言葉を切った。 「触《さわ》ってみ」祐治は腕に力瘤《ちからこぶ》を拵《こしら》え、駿が躊躇《ためら》っていると、「ダンベルみたく硬いよ、ほら」と駿の右手を引っ張って触らせ、「おれ、プロレスラーになろうかな」これまで一度も見せたことがないつるんとした笑顔を駿に向けた。  直輝は七、八冊のヌード雑誌を抱えて部屋に戻ってきた。 「兄ちゃんのなんだけど超エッチだぞ」直輝はふたりのまえに置き、一番上の雑誌をめくった。  全裸の女がピンクのシーツに覆われたダブルベッドに横たわっている。両脚は大きくひらかれ、黒々としたヘアが腿《もも》の付け根にこんもりと繁《しげ》っている。祐治は雑誌を奪い取って眉《まゆ》をひそめ、なんなんだよ、これ、こんなのってありぃ、おまわりさぁんいけないんですよぉ、と声変わりした声をわざと裏返した。そして猿をくすぐったらこんな風に笑うのかもしれないと駿が呆《あき》れるほど手脚をばたつかせて笑い転げた。  その雑誌を見終わると、祐治と駿は万引きでもするように一冊ずつ抜き取り、立膝をして腿のうえにのせた。  駿はページをめくった。  長い髪の女がベッドに背をもたせてタイル張りの床に脚を投げ出している。顎《あご》は僅《わず》かにうえを向き、目は何かを見ているようで何も見ていない。唇は薄くひらかれ、右手はシーツ、左手は長い髪を掻《か》き毟《むし》るようにつかんでいる。乳房《ちぶさ》は汗で光り、胸から下腹部にかけての滑《なめ》らかな起伏は、ふとももの付け根の奥に流れ込んでいる。駿はヘアから目を逸《そ》らした。キタネエヨ。それでも女の部屋の窓から差し込む外光によって本物に見える裸体を、これまでに見た何よりも美しいと感じた。しかし駿には、なぜ美しく見えるのか、この女が何のためにこんなポーズをとっているのか、まったくわからなかった。  つぎつぎに目に飛び込んでくる女の裸をほんとうに見たいのだろうか。コンナノイヤダ手ヲ洗イタイ。そのくせ駿の目は、べっとりとした粘液を引き摺《ず》り触角だけをうごめかせて進む蝸牛《かたつむり》のように写真のうえを這《は》った。  女たちは駿を見詰めている。  駿は裸を眺めている自分を女たちが見詰め返していることに居心地の悪さを覚えた。ナゼミルノ、そういいたげな視線。だったらなぜ裸になって写真を撮らせるのか、駿は首を傾《かし》げて耳朶《みみたぶ》を弄《もてあそ》んだ。  もうやめにしようと思いつつ右手のおや指がページを飛ばしていく。おや指に力が入ったのであわてて右手で押さえた。  ──古い家の廊下、少女は白地に水色の花模様の布団《ふとん》に黒のカーディガンを羽織《はお》っただけの姿で仰向《あおむ》けになっている。カーディガンはふたつの乳房のうえまでまくれあがり、繊細《せんさい》なカーブを描いた腹部の中心の窪《くぼ》みに駿の目は吸い込まれていった。ほんのりと薄青く、桃と藤の花弁《かべん》が溶け合ったようなやわらかい色彩のからだ。サワッテミタイ、駿は切実に思った。サワッテミタイ、その瞬間一切のものが浮遊《ふゆう》しはじめ、たしかに所有しているものなど何ひとつなく、自分は無力だということをまざまざと思い知った。少女の眼差《まなざ》しは他の女たちとは異なっている。駿の欲望を覗き込んではいない。ただひたすらだれかに見られたいと希《のぞ》み、そして見られることを恥じて哀《かな》しんでいる。駿は、この少女はだれかとんでもない悪者に囚《とら》われて、無理矢理服を脱がされた挙句《あげく》写真を撮られたのだと思った。救いを求めているのだ。この少女を救えない自分は薄暗い出口なしのトンネルのなかにいるのと同じだ。駿は少女を救う冒険を思い描いてみた。ファミコンのゲームではなく、ほんとうにだ。ヴァーチャルリアリティナンカジャナクテホントウニダ。ピーチ姫は実在しないが、この少女はいるのだ、この世界に。駿は明るい地上からトンネルのなかへ入ろうとしている自分を感じた。トンネルには新しい秩序があり、強い肉体の力がなければ生き残れない苛酷《かこく》な場所だと予感した。生の現実、制御することができない未知のエネルギーがしっかりと駿を捉《とら》える。  見ろよこれ、チカンニアッタヨルハムチャクチャニサレテイルコトヲソウゾウシテ、ハゲシクイッチャウンデスだってさ、見ろよ、祐治はヌード雑誌を床にひろげた。脚を大きくひらきパンティに指を入れている女、乳房を揉《も》み、もう片方の手で陰部《いんぶ》を押さえている女など、オナニーを連想させるポラロイド数枚がコラージュされている。駿は目を逃がして、コーラとポテトチップスを手に取った。見て、見て、これ、と今度は直輝がページから飛び出すように尻を突き出している女の写真を床にひらいた。尻に密集した汗の粒を見ているうちに、不快感と同時にむず痒《がゆ》さがこみあげてくる。女は苦悶《くもん》の表情を浮かべてのけ反っている。デカイケツダナァ、ドウシテケツヲミセンダロウ、アタマオカシインジャナイノ、直輝の汗まみれの声が部屋中に飛び散る。ナ、ドウシテケツミセンダロ、コイツゼッタイオカシイヨ、ケツニイッパイアセカイテ、クルシンデルナンテサァ、ウンコガマンシテンノカ。おかしいのは直輝のほうじゃないか、何もそんなに興奮することはない、こんな写真汚いだけだ、と駿はおや指をはさんでいたページをもう一度ひらき、名前を記憶に刻み込んだ。かわむらちさと。その名前によって電気のスイッチが押されたように、これまで曖昧《あいまい》だった世界が隅々まではっきりした。ピーチ姫を救出する物語はゲームだが、中学か高校生になれば、かわむらちさとの写真を所有することができる、そしてもし一流大学に合格し、一流会社に入社できたら、かわむらちさとに触ることだってできるはずだ、ゲームジャナイ。駿はなぜ塾通いするのかという疑問が解《と》けた気がして嬉しさがこみあげてきた。要するにステージをあげることなのだ、レベルを。 「やろうぜ」いい出したのは祐治だった。 「何を」駿は目を逸らそうとしたが、祐治は駿を見つめたままで、 「あれだよ、昨日の」 「ああ、でも式部はどうする」駿は純一が家庭教師をつけているのだろうと思った。 「あいつどこ行ったのかなぁ、放課後見かけた?」直輝も気が進まないようだ。 「知らん」と祐治がいった。 「式部の電話番号は」 「家にいるかなぁ」駿はわざとゆっくりした口調でいった。 「何番だっけ。電話してみろよ」  駿はいくぶん思いあぐねているような表情を見せてから、うなずいた。  直輝がとなりの兄の部屋からコードレスフォンを持ってきたので、駿は受け取ってプッシュボタンを押した。 「もしもし純一くんいますか」 「ごめんなさい、いまいないのよ、どなた?」母親が出た。 「同じクラスの野本《のもと》ですけど」 「ああ、帰ってきたら電話するように伝えとくわね」 「あっ、いえ、いいんです、いま友だちのとこにいるので。じゃあ、失礼します」駿は外線ボタンを押して電話を切り、何もいわずおや指の爪《つめ》を噛《か》んだ。ヤッパリ家庭教師ヲツケテルンダ、クソッ。 「居留守じゃねぇの」  祐治はふて腐《くさ》れて、しばらくは何を話しかけても口をきかず、雑誌に見入っていた。 「ちょっとおしっこ」と駿が立ちあがると、祐治は突然「いやぁんやめてぇ」と駿のベルトをつかみ、ぐいと引っ張り、駿がよろけた隙《すき》に、ズボンのチャックをおろし、ふたりは重なり合ってベッドに倒れた。祐治が「いやぁん感じちゃう」と駿の平らな胸を揉《も》む真似をしたので、駿は顔を真っ赤にして「やめろよ」と口籠《くちごも》ったが不意に声をあげて笑い出した。「心臓マッサージやったら」と直輝がいうと、「チンコーマッサージ!」祐治は右足の踵《かかと》を駿の股間《こかん》に押しつけて激しく振動《しんどう》させた。止めようとしても止まらない。止めようとするほどますます笑いがこみあげてくる。「おい、こいつやばいんじゃないの、野本、おい、だいじょうぶか?」直輝は心配そうに駿の顔を覗《のぞ》き込んだが、駿には返事ができなかった。  駿はベッドに腹這《はらば》いになり枕に頬《ほお》を押しつけると、右手でジーンズのチャックをおろした。硬《かた》くなり過ぎてうまく出せない。仰向《あおむ》けになって腰を浮かし、ジーンズとブリーフを骨盤《こつばん》のあたりまでおろした。股間の脈動《みやくどう》は堪《た》え難いほどになり、上唇の上に汗の玉が滲《にじ》んだ。駿はきつく目を暝《つむ》って、駅の改札をくぐりやわらかな腰の線を振りながら暗闇に突き進んでいく女、茶色く染めた髪を肩にひろげほっそりした指で乳房を揉んでカメラに向かって脚をひらく女、そして爪と同じ色のぼってりした赤い唇で笑う女をつぎつぎと追いかけた。女たちは区別がつかなくなり、かわむらちさと、とつぶやいた瞬間冷たいシャワーを浴びたように興奮が鎮《しず》まった。  駿は水面を泡のように漂《ただよ》っている気分になった。モウスコシデイキソウダッタノニ、デモキモチイイ。ちさとが幽閉《ゆうへい》されているトンネルのなかに入っていくと、ポラロイドのフィルムのようにちさとの裸が浮かんだ。  ノックの音であわてて立ちあがる。 「ご飯だってさっきからいってるのが聞こえないの」 「わかった、すぐ行くよ」駿はわざと子どもっぽい声を出して洗面所に行き、鏡に映る自分の顔にうっすらと生えた髭《ひげ》をひとさし指でなぞった。  母親は台所で何をしているのだろう、何か飲み物ちょうだい、といってからもう五分経つ。駿の喉はからからで、食べるそばからパンがへばりつくという感じだったが、なんとか唾《つば》で飲み下した。塾がある月水金と日曜以外は母親とふたりで夕食を食べなければならない。高校入試のため進学塾に通っている姉の理和は十一時、父親は駿が眠ったあとに帰ることが多い。  台所から出てきた母親は駿のまえにコーンスープの入ったカップを置いた。 「冷たいものないの」 「スープ飲んでからにしなさい」 「昼間シチューだったんですけど」と駿は不機嫌さが伝わるように丁寧《ていねい》な言葉|遣《づか》いをしたのに、「あら、しゅんちゃんはコーンスープ大好物だったでしょ」母親は陰気に笑って台所に戻った。真夏にこんな熱いスープなどひと口だって飲めるはずがない。駿はテレビの画面に目を移した。オムニバスドラマ〈木曜の怪談〉の二話目の〈怪奇倶楽部〉がはじまっている。少年は街で出逢った美少女と親しくなり、家に招待される。少年の友だちは少女の姿が鏡に映らないことを目撃し、吸血鬼だと知る。フンフン、パターンダナ。少女が祖母とふたりで暮らしているいかにも不気味な洋館がアップになったところで、CMになった。バターと蜂蜜《はちみつ》をたっぷり塗ったパンを口まで持ってきたとき、食パンの耳が残っていることに気づく。駿はパンの耳が食べられない。  母親は両手で両ひじを押さえて狭い台所を行ったり来たりしていた。 「パンに耳が残ってるんですけど」というと、母親は細くした目を駿に向けた。少し充血している。駿は流しのしたの引き出しから果物ナイフを取り出して食卓に戻った。画面では十字架を押しつけられた吸血鬼の老婆の胸が焼け焦《こ》げている。駿はパンの耳を切り落とした。  玄関の扉に鍵が差し込まれる音がした。父親がぎこちない素振《そぶ》りで居間に入ってきた。 「早いじゃない、どうしたの」台所から出てきた母親が上目遣《うわめづか》いで父親を見た。  父親は母親の顔を見ないで駿のまえに座り、「テレビばかり見てると、桐蔭《とういん》は無理だぞ、二月なんてあっという間なんだからな」そういってから、「どうだ父親らしいだろ、うん?」と気弱に笑い、「トーストにスープにサラダか、朝飯みたいな食事だなぁ」 「たまたまよ、それにしゅんちゃんは好き嫌いが激しいから、食べてもらえるだけでも感謝しなきゃならないの、あなたの帰宅とおんなじよ」 「そうかそうか」父親は今度はさもおかしそうに高笑いした。  母親が父親に向かって口にする言葉のひとつひとつに籠《こも》っている憎しみが駿に降りかかってくる。父親にはちゃんと届いているのだろうか。ソウカソウカハナイヨナ。 「何か食べますか」 「いやいい。最近のテレビは八時過ぎても子ども向けの番組やってるんだな。面白いか、だれなんだ、このタレント」  駿は答えることができなかった。父親の背中を見透かすようにして眺めていた母親が短く鋭い声でいったからだ。 「昨晩電話ありましたよ。もう用は済んだんでしょうけど、帰らなかったんですからね」 「あとにしよう。おれのほうも話したいことがあるから」と父親は声をひそめた。母親は皮肉《ひにく》な笑いを浮かべて画面に視線を移し、「野村祐香っていうのよね」と甘ったるい声でいった。父親は眉《まゆ》をあげ、煙草に火をつけて煙をふうっと吐き出し、冷蔵庫を開けビールをテーブルに運んだ。母親は栓抜《せんぬ》きとコップを置いた。  電話が鳴った。父親と母親は同時にからだを動かしたが、 「もしもし野本でございます」母親が優しそうに聞こえる声で受話器にささやきかけた。イチイチ声ヲカエンジャネエヨ。 「駿ですか、ちょっと待っててくださいね、そうそう亜美ちゃんきれいになったわねぇ、ほんとに、この間、学校の廊下であったとき、おばさんびっくりしちゃった。しゅんちゃん、亜美ちゃんよ」  駿はてのひらの汗をジーンズに擦《こす》りつけて拭いてから受話器を受け取った。 「もしもし? 怒ってる? あいつらに冷やかされた? 日曜日きてくれるでしょ? 話があるの」  ドウシテ女ハ声ヲ変エルンダロウ、ナンデコノ女ハコンナ時間ニ電話シテクルンダ。 「たぶん行けないと思う」冷たくいおうとしたが照れたようなやわらかい声になってしまった。駿の背後では父親と母親が声を殺して激しくいい合っている。早く電話を切りたくて、「行けたら行く」駿は素っ気なくいった。 「日曜日待ってるから。いま、右手で何してるかあててみて、約束のサインよ」  駿は何もいわないで電話を切った。  父親は椅子に反り返って腕組みをすると、煙を吐き出して駿の顔を眺めた。母親は放心したように父親の肩越しに前方を見詰め、となりに駿が座ったことすら意識していない様子だった。駿にはしんと静まり返った家の空間がつぎに起こる出来事を待ち受けているように思える。三話目の〈ゴーストハンター早紀《さき》〉は見る気分になれず、立ちあがるタイミングを計った。不意に父親はリモコンを手に取り、いいか、と駿に目で訊《たず》ね、1チャンネルに変えた。テレビを観たまま、「駿、塾にいくらかかるか知ってるか」 「あなた」 「月謝はお父さんの小遣いより多い。ま、気にしないでいいけどさ」  駿は黙ったまま席を立ち、自分の部屋に入ると、ベッドに頽《くずお》れ、枕に、強く、顔を埋めた。それでも、途切れ途切れに、聞こえる。若イ女ト 恥ズカシクナインデスカ アノ女ハ 駿ト理和ノタメニ チャントキイテルヨ 昨日モ女トホテルデショ フザケナイデ モウソウダヨ 一語一語が甲高《かんだか》く熱を帯び、まさに破裂《はれつ》寸前の状態だった。駿は塾の教室にいるときよりももっと冷《ひ》え冷《び》えした空気を感じ、ゆっくりと立ちあがりパーカに袖《そで》を通して、机の上のアストロブーメランを指の関節が真っ白になるまで強く握りしめた。ふたりの言葉が駿の頭のなかで踊りまわっている。駿は扉越しの声に苛立《いらだ》って、音をたてないようにノブをまわし、扉を僅《わず》かに開けた。「許しません!」「ママ、冷静になれよ」「よくもぬけぬけと」「ママ、頭を冷やせ」「ママ、ママってよしてください、気色悪い」「出てくる」「女のとこですか」「バカいえ、駅前で呑むんだよ」「あなたお酒呑めないじゃないですか、ビールコップ一杯で真っ赤になるくせに」「何がいいたいんだ」「別に」「おれが帰らなければ、それでこの家は平和なのか、無事なのか、理和と駿は合格するのか」「何いってるの、バカみたい」「疲れるなぁ、いやぁおれは疲れた」「じゃあどうして出かけるんですか」鍵がまわるかちりという音がして、玄関の扉が開く音──。  玄関のチャイムの音で目を醒《さ》ました。駿は目を擦《こす》り、父親が戻ってきたのだと思った。父親の夢をみていた気がするが、断片《だんぺん》すら浮かんでこない。チャイムは執拗《しつよう》に鳴りつづけている。なぜインターフォンを取らないのだろう、駿はベッドから起きあがった。  居間には煙草の煙がまだ漂っているようだ。父親への嫌悪感にはヤニの臭いが絡《から》まっている。鍵を開けたら、顔を合わさずに部屋に戻ろう、そう決めてインターフォンを取った。 「お父さん?」 「野本? よかった、おれだよ、木村」  駿は走って玄関へ行き、扉を開けた。どうした、と訊ねても直輝は目を見ひらいたまま身じろぎひとつしない。 「どうしたんだよ」爪先を靴に突っ込んで外に出ようとしたそのとき、 「だれなの、こんな時間に」母親の顔は白く、ひきつっている。 「木村くんだよ、すぐ帰る」 「外は駄目、話があるんならあがってもらいなさい」  母親の頭越しに時計を見ると十一時を過ぎていた。何かとんでもないことが起こったにちがいない、でなければこんな遅い時間に訪ねてくるわけがない。すぐ帰る、と玄関の把手《とつて》に手をかけると、 「お母さんがいってるでしょう、駄目だって」母親が指が食い込むほどの強い力で駿の腕をつかみ、離せよ、と首を捻《ひね》ると、特殊メイクを施《ほどこ》したのではないかと疑いたくなる形相《ぎようそう》でにらみつけている。駿はその手を力任せに振りほどいて外に出た。  階段のしたに祐治がいた。祐治の顔をひと目見るなり、駿は手に負えない厄介事に巻き込まれたことを知り、怖じけづいた。唇が切れて血が滲《にじ》み、紫色に腫《は》れた瞼《まぶた》は目に覆《おお》い被《かぶ》さろうとしている。 「ひどいんだ、だれにやられたと思う」うつむいたまま話す直輝の声はだんだん小さくなっていった。駿はこんなことには関わりたくないと思いつつ、それでも悲鳴のような声で訊いた。 「だれに」 「父親、高梨の」  三人は黙りこくったまま団地の敷地内を歩いた。どうしたらいいのか、駿はどんな考えも浮かばなかった。祐治は慰《なぐさ》めてほしいのだろうか、だとしたら慰める言葉なんてない。これがもし中学生の不良に痛めつけられたのならいくらでも慰め励《はげ》ますことができる、いっしょに復讐すると誓えばいいのだ。実行不可能な作戦を口から出まかせにまくし立てればいい。だがこの場合は、無理だ、どんな言葉だって口に出すのは難しい。  二号棟にある藤棚のベンチに腰をおろした。祐治は跪《ひざまず》いて靴紐《くつひも》を結び直しながら、ごめん、唐突《とうとつ》につぶやいた。駿はいっそ、自分のほうが泣いてしまいたかった。無力な祐治は無力な駿と直輝に、それが何の救いにもならないとわかっていても逢わずにはいられなかったのだ。もし自分が同じ目に遭っていたら、やはり三人のうちのだれかに逢いに行っていただろう。他にどうすることができる。祐治の痛みと恐怖と怒りをただ感じるしかない、そう思って駿は少しだけ落ち着きを取り戻した。  祐治は喘《あえ》ぎ、呪いのような呻《うめ》き声をあげていたが、やがてそれは嗚咽《おえつ》に変わり、涙が瞼《まぶた》を衝《つ》いてあふれ出た。 「いつもは、あいつ、学校のだれかに気づかれたり先生に騒がれるとまずいから、背中や尻を殴るんだけど。ちょっとでもあいつの気に入らないことすると、空気椅子《くうきいす》二時間やらされたり、うちから五つ先の駅まで三往復しろとか、それだって証拠のために切符買わなくちゃ駄目なんだ。すぐ思いつきで殴るし、いいわけすると、めちゃくちゃ殴って、何にもしてないのに、おれ何にもしてないのに、悪くないのに、殴りやがって、おれ、おれ、何もしてないのに、おれ」  駿は泣き声を聞きながら、おれ鍛《きた》えてんだ、といった祐治を思い出していた。あの上半身にも痣《あざ》や疵《きず》があるのだろうか。 「だって、さぁ、高梨のお父さん、先生だろ、中学の先生じゃないか、体罰なんていけないんじゃないの、めちゃくちゃだよ。先生で父親だろ、ひどいよ」直輝は拳《こぶし》で自分の腿をたたいて声を振り絞《しぼ》った。  風がどこかの叢《くさむら》から犬か猫の尿の臭いを拾い上げて吹き過ぎた。  祐治はしゃくりあげ縋《すが》るような眼差《まなざ》しでふたりの顔を交互に見て、 「おれ、家に帰りたくない、帰りたくないよ」 「おれ帰らなくちゃいけないんだけど」直輝は腰を浮かし、しかし祐治を見棄《みす》てて帰ることもできず、いまにも泣き出さんばかりに顔を歪《ゆが》めた。駿は追い詰められた直輝の表情を見ているうちに自分でも驚くほどきっぱりといった。 「うち泊まりなよ」  駿は勢いよく立ちあがると、Tシャツの裾《すそ》をジーンズから引っ張り出してからだに風を入れた。そして数歩歩いて振り返り、行こう、と笑いかけた。祐治は長い時間身動きひとつしなかったが、手の甲で鼻水を拭《ふ》いて腰をあげた。  直輝とは七号棟の公孫樹《いちよう》の前で別れた。  足音を聞きつけたのか、駿の母親は扉を背に待ち構えていた。 「自転車にぶつかって転んで石に当たったんだって」  祐治の唇は固く結ばれてほとんど動かない。母親はうつむいている祐治をしげしげと眺めて、 「お母さん心配してるわよ、おばさんついてってあげるから帰りましょ」 「今日はね、高梨んちだれもいないんだって、お父さんとお母さん、親戚《しんせき》んちに泊まりがけなんだってさ。けがしてるし、今日はおれの部屋に泊まってもらうから」  駿は祐治の肩をしっかりつかんで扉の把手《とつて》を引いた。 「おうちに帰ったほうがいいわよ」  ふたりは素早く靴《くつ》を脱ぎ、駿の部屋に向かった。 「じゃいいから電話一本入れなさい、おばさん説明してあげるから」 「だから留守だっていってんだろ、聞こえねぇのかよ!」そう叫んで扉を閉めると、駿と祐治は力が脱け、公園のベンチに座っている老人のようにベッドに並んで腰かけた。祐治は目をぱちぱちさせている。 「痛いの? 冷やそうか」 「平気」祐治は駿の顔を見て微笑んだ。 「ガンハザやる?」駿は返事を待たずにひと月前の誕生日に父親からプレゼントされた〈ガンハザード〉のカセットをセットし、祐治を促《うなが》した。  ふたりはベッドに背をもたせて両脚を伸ばし、スタートボタンを押した。画面に染《し》み出た映像と目に躍《おど》る光が交《ま》じり合い、ボリュームを抑《おさ》えていたためシンセサイザーが頼りない音を出した。  扉の外で様子を窺《うかが》っていた母親が押し殺した声で、 「しゅんちゃん、ファミコンは一日一時間て決めてるでしょ、夕方やったんだからもうできないのよ、しゅんちゃん、ちょっと開けなさい」  駿は母親の声が聞こえなくなるまでボリュームをアップすると、たちまち気分が昂揚《こうよう》してきた。混乱した頭と疵《きず》ついたからだで立ち向かうなら、宇宙的なスケールを持つ敵が待ち構えている感情のない国しかない。駿はアルベルトになる。アルベルトは故郷エミンゲンでのクーデターの罪をなすりつけた首謀者《しゆぼうしや》アーク大佐への復讐のために傭兵《ようへい》になるが、しかしアークを操《あやつ》る闇の組織が世界中の戦争を引き起こしていることを知り、〈フレンド〉の協力のもとに闘うのだ。祐治はパイロットのブレンダを選択し、駿の〈フレンド〉になる。 「いい、しゅんちゃん、もう十二時をまわってるの、勉強するんじゃなければ、野本家では眠らなければならない時間なの、それが約束でしょ、そんなことぐらいわかるでしょ、お父さんにいうわよ、ああ見えてもお父さん怒ると恐いわよ、しゅんちゃん、ここ開けなさい! 寝なさい!」  現実は敵でも味方でもない。心を和《なご》ませる画面の大量|虐殺《ぎやくさつ》もない。あるのはただ学校と塾と浮気をしている父親と──、母親は哮《わめ》き散らしながら扉をたたいている。不当だという点ではクーデターの罪をなすりつけられるのと同様の行為だ。ドンドンドンドン扉ヲタタク音、アレハ現実ダ、敵デハナク母親ダ。 「それになんていったかしら、名前。お母さんはじめて会ったわ、お母さんが知らないひとを泊めるのは野本家では本来ありえないことなの、でもいいのよ。だけど病院に行かないと駄目、頭打って何時間か経って意識不明になるってこともあるんだから、そしたらお母さんが困るの、訴えられるかもしれないの」  画面に世界地図が現れる。どこ行く、と駿が訊《たず》ねると、寒いとこがいいな、祐治はしんとした声でいった。セレクトボタンを押して目的地のボルクタに移動する。画面は雪山に変わり、戦闘地域を指定して武器や弾薬《だんやく》などを装備する。ふたりの目が集中しようとどんより曇る。駿が十字ボタンを押して降りしきる雪のなかを歩きはじめると、祐治はBボタンを押しっぱなしにして崖《がけ》から一気に落下する。敵が現れる。からだのなかで血がどくりと流れ、駿は目を細めてコントローラーを握りなおし、Yボタンを押して連射する。雪埃《ゆきぼこり》が舞いあがるだけでなかなか命中しない。敵の攻撃から身を守るのに精一杯だ。そのとき空中に別の敵──画面右下にブレンダの叫ぶ顔と〈ああっ! このままでは危ない〉というメッセージが現れるが、ブレンダが上空から掩護《えんご》射撃し、邪悪な敵のヴァンツァーを爆破した。太陽に輝く向日葵《ひまわり》に似た火炎が吹雪のなかに膨《ふく》れあがる。駿は黒煙が立ちのぼって、天井《てんじよう》あたりに溜まり、部屋中に充満しているような気がして思わず咳《せ》き込んだが、休む間もなく雪をかぶった樹影《じゆえい》からつぎなる敵が現れた。もう母親の声もドアをたたく音も聞こえない。小さな声が祐治の口から洩れた。つづいて大きな声が口から衝《つ》いて出た。  戦争だ、戦争だ、戦争、戦争、戦争だ! [#地付き]金曜日[#「金曜日」はゴシック体]   少年たちはローソンの前に蹲《うずくま》り、祐治はハムサンド、純一はレンジで温めたスパゲティミートソース、直輝はチーズ蒸しパンとカレーパンで腹拵《はらごしら》えをしている。塾がはじまるまであと十五分。駿は腕時計をはめた手をおろして、ビニール袋のなかからふたつめのおにぎりを取り出した。 「純一くぅん、アイス買うから百円貸してぇ」祐治は鼻にかかった声で純一に躙《にじ》り寄り、胸もとに手を突きつけた。駿はおにぎりのビニールを破いて祐治の左目の眼帯《がんたい》を見た。朝礼のあと担任に早退して病院に行くようにいわれたのだ。 「え? また? この前貸した五百円まだ返してもらってないよね」  祐治はだれに笑いかけるともなく、にやりと顔を崩して、 「純一くぅん、貸してくれないの?」  純一は口のまわりを拭《ぬぐ》って、 「わかったよ、貸すけど、ぼくも今月苦しいから、夏休みまえには返すって約束してよ」 「何が苦しいだよ、月三千円ももらってるくせによぉ」祐治は純一の首を右腕で抱《かか》えて絞《し》め、純一が小銭入れから百円玉を出すと、「もったいぶんなよ」と奪い取り店内に入っていった。  駿は、直輝と入れ違いにアイスキャンディーを齧《かじ》りながら出てきた祐治の眼帯をしていない右目が熱っぽく光っているのを見逃さなかった。店内にいる直輝を目で追ってからふたりを手招きし、「木村は三勇士《さんゆうし》におどされてるんだ」と声をひそめた。何それ、祐治が上の空でいったとき、ジュースを手にした直輝が出てきた。駿は素早く、あとで、といって直輝に笑いかけた。  祐治が「あれ、やろう」といい出した瞬間、三人とも何のことだかわかったが、「えっ、何」駿はとぼけた。祐治が「女に決まってんじゃん」と舌打ちすると、三人の口から同時に気の抜けた声が洩《も》れ、純一が躊躇《ためら》いがちに「でもさ、二回つづけて塾さぼるとさ、親に電話行くし、授業わかんなくなるし」といった。祐治はさっと顔を翳《かげ》らせたがひと息置いてから三人の顔を交互に眺め、「じゃあ終わってからやろ」といい、「おれ、最近帰り遅いってババアに怒られてさ」口籠《くちごも》った直輝の顔を正面から見据《みす》え、「三十分ならだいじょうぶだよ、遅いほうがひといなくて安全だろう。それにおれがむしゃくしゃしてんのわかるだろ」と薄く笑った。駿は腕時計に目を落とし「六時!」と叫んで走り出した。三人は赤信号の車道を突っ切って追いかけ、フラワー通りを走り、駿は追い抜かれまいと翼《つばさ》のように両腕を広げ、追いつきそうになった三人は肩を打《ぶ》つけて、押し退《の》け合い、追い越されては追い越した。塾の入口に、駿と祐治はほぼ同時に、やや遅れて直輝、純一がゴールインした。そしていかにも憂鬱《ゆううつ》そうな塾の生徒の顔を拵《こしら》えた。  自動扉がひらいてなかに入ると、エアコンの冷気が冷凍室に飛び込んだ気分にさせる。建物のなかの室温はいつでも真冬の気温に合わせてある。講師は居眠り防止と記憶力を増すためだと説明し、風邪《かぜ》をひくのでジャンパーかセーターを忘れないように念を押していた。直輝と純一はそのまま教室に入り、祐治はウォータークーラーのうえに身を屈《かが》めて水を飲み、眼帯をはずして左瞼《ひだりまぶた》を冷やしている。駿は冷たい空気を肺いっぱいに吸って、体内の熱気を思い切り吐き出し、二階へあがっていった。他の三人とは教室がちがう。塾では模試の成績別に四クラスに分かれている。駿は一番上で、他の三人は下から二番目のクラスだ。  授業ははじまっていた。駿が扉を開けてもだれも目をくれなかった。駿は鞄《かばん》のなかからセーターを引っ張り出して頭からかぶり、となりの生徒がひらいているページを確認してから、椅子に座った。てのひらが汗ばんでいるので鉛筆がうまく握れない。午前三時まで祐治とファミコンをやっていたせいで眠気が忍び寄り、あくびが出そうになっては寒さに邪魔《じやま》され、駿は何度もからだをふるわせた。  塾のまえの階段を半分おりたときには既《すで》に、少年たちのこころは参考書の問題から離れ、女を待つことになっている駅前に飛んでいた。少年たちは階段をおりると走り、横断歩道を渡って自転車置場に到着した。  祐治はスニーカーの爪先で女を襲うときの位置を描きながら、 「おれさ、授業中考えてたんだけど、やるのはふたり、あとのふたりは見張りでさ、まえのほうとうしろのほうからだれかこないか見張ってんだよ、でもそれじゃ不公平だろ、だからもう一回やるんだよ、それで今度は見張りのふたりがやる」  昨夜あんなことがあったというのに、祐治がどうして元気なのか駿は不思議で仕様《しよう》がなかった。 「でもさぁ、女のひと、おれたちふたりで押さえられるかなぁ」直輝は塾のマークがついている鞄を自転車の籠《かご》のなかに置いた。 「うーん、やってみないとわかんないけど、無理かぁ」 「まえからだれかきたらわかるんじゃない? だって見えるでしょ」純一は下唇をまえに突き出して前髪を吹いた。 「だねえ、オッケー、三人でやろう、ひとりが見張る。見張りだれやる?」  駿は手を挙げて祐治の眼帯を見た。その視線は祐治の片方の視線に搦《から》めとられた。  濃紺《のうこん》のぴっちりしたボディコンを着た女が改札をくぐり抜けたとき、祐治は右手を固く握りしめて、腰のあたりで振った。少年たちは出発した。アスファルトをコツコツと踏むハイヒールの音の間隔《かんかく》が短くなる。部屋で男が待っているから急いでいるのか、それとも早く帰りたい一心なのか、駿はむき出しの背中から目を離さずに、こういう女がヌード写真のモデルになるんだと思った。女の裸体を想像しようとしたがうまくいかない。少年たちが追いつこうとして足を早めたとき、女は突然方向を変え、雑居ビルの階段をおりていった。地階に何軒かのパブがある。  駅へ戻ろうと一歩踏み出し、少年たちはぎくりと足を停めた。女が近づいてくる。茶色く染めた髪は鎖骨《さこつ》のあたりでばらばらと乱れ、高いヒールのサンダルを履いているが、慣れないのか酔っているのかときどきバランスを崩して腰を揺らし、そのたびにオレンジ色の巻スカートの裾《すそ》がひらひらとめくれる。少年たちは清涼飲料水の自動販売機に近づいた。祐治が百円玉を入れるふりをして女が通り過ぎるのを待ち、女の背中が五メートルほど遠ざかるのを目の端で確認して歩き出した。  女は少年たちの期待に反して裏路《うらみち》には入らず大通りを歩いた。横断歩道のまえで女は立ち停まり、少年たちは女のすぐとなりに並んで信号が青に変わるのを待つ格好になってしまった。柑橘系《かんきつけい》の香水の匂い、アルコールの匂いも混じっている。駿は深呼吸をしてその匂いを吸い込んだ。女はうつむいてサンダルから左足を抜き、フラミンゴのように休んでいる。爪先が痛いのだろうか。ひとり言をつぶやく。何をいったのかは聞き取れなかったが、それが罵《ののし》り言葉だということはわかった。  少年たちは有名タレントに路上で出会《でくわ》したかのように女の横顔をまじまじと見た。とがった顎《あご》と細い鼻梁《びりよう》が駿の目に映る。いくつだろうか、駿には化粧をした女の年齢など見当もつかない。女が呆《ほう》けたように空を見て、目を瞑《つむ》り唇をひらいたとき、少年たちは落ち着きを失って信号に目を逸《そ》らした。駿のてのひらは汗が滲《にじ》み出してぬるぬるしている、香水にこれほどまでに刺激されるとは思いもしなかった。駿はズボンの股間《こかん》が盛りあがっているのを気取られないように三人の背中に隠れた。信号はなかなか変わらない。駿は信号機の鉄柱にボタンがあることに気づいた。ひと通りの少ない夜間のみ、ボタン式なのだ。駿はボタンを押した。  信号がようやく青に変わる、酔っぱらったサラリーマンたちが少年たちと女の間に割り込んだ。祐治は横断歩道を渡ろうとせず、踵《きびす》を返して駅に向かった。あとに従った三人はしばらく黙りこくったまま肩を並べて歩いていたが、やがて駿が口をひらいた。 「帰る?」  だれも答えない。  駿は腕時計の文字|盤《ばん》を一瞥《いちべつ》して、 「あと五分で九時半だし」 「もうひとりだけ」祐治は虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しを駿に向け抑揚《よくよう》のない低い声でつぶやいた。その澱《よど》んだ、投げやりな口調に有無をいわせぬ切迫した響きを感じ、駿は黙って自転車置場の前で歩を停めた。  ちょうど電車が到着したところらしい、自動改札は乗客を吐き出している。四人の動きがぴたりとやんだ。白地に臙脂《えんじ》色の花模様のサンドレスを着た女が改札を出る。ノースリーブの肩紐《かたひも》が二の腕までずりさがっている。たったいまプールからあがったばかりだとでもいうように額《ひたい》や頬《ほお》に髪の毛が貼《は》りついている。ほんとうにプールの帰りなのか、それとも風呂あがりで髪を乾かさないで外出したのか、駿にはわからない。唇は真っ赤で頬と瞳はネオンサインか何かの光を映して、青みを帯びて輝いている。  駿は薄い布地《ぬのじ》越しに女の肉体が透けて見える気がした。女の尻の動きを見ているうちに、ヌード雑誌の裸体、突き出した尻に光る汗の粒が浮かんだ。この女の尻も汗で濡れている、そう思うと快感で全身が痺《しび》れ、ふたたび勃起《ぼつき》した。  路地に入った途端に闇は深まり、白いドレスはスプレーをしたように女のからだに吸いついて見えた。女の肉体は少年たちを従《したが》え、闇を掻《か》き分け波立たせて突き進んでいった。いくつかの暗い路地を曲がり、そのたびに背後を確かめるために駿は振り返った。先頭の祐治が歩を緩《ゆる》めて、駿を見た。互いの唇の動きを読んで、駿は立ち停まり、三人はぐんぐん女に近づいていった。駿は鋭い目つきで後方を見た。ひとがやってくる気配はない。近くの庭で犬が激しく吠えたてた。駿は跳びあがって息を呑んだが、ゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち着かせていき、三人が女を襲う様を想像した。  三人は女を空地の叢《くさむら》に引き摺《ず》り込んで押し倒す。直輝が女の両手を捩《ねじ》りあげ、純一は右足首を両手で握りしめる。そして祐治は膝《ひざ》をついて女の両脚の間にからだを割り込ませ、丸く美しい左の膝頭を片手で地面に押しつけて、もう一方の手でワンピースを胸までまくりあげ、女の裸体は闇に曝《さら》される。女が身を防ぐものは何もない。祐治の手は乳房や華奢《きやしや》な腰やすべすべした下腹部を撫《な》で、腿《もも》に沿って這《は》いあがり、パンティのゴムをつかんで一気に足首まで引き摺りおろす。──まさか、駿はこんなことを想像している自分に狼狽《ろうばい》してあわてて打ち消した。そこまでできるわけがない。多分乳房を触るだけで逃げてくるにちがいない。女は目を瞑《つむ》って顔を背《そむ》けて呻《うめ》くだろうか、恐怖で目を見ひらくだろうか。地面に投げ出されたハイヒール、泥だらけの下着、女は抵抗をあきらめて力を抜く。祐治は額から汗を滴《したた》らせながら乳房を揉《も》む。  激しく襲ってきた自己嫌悪は、ブロック塀から跳びおり別の家の垣根《かきね》をくぐっていった黒猫のせいで消え失《う》せた。突然懐中電灯を向けられたような眩《まぶ》しさで亜美の顔と、日曜日ひとりだから遊びにきてという言葉が浮かんだ。亜美とは幼稚園のころから親しく、小学校に入ったときクラスが別で泣いたほどだが、一年の終わりには口をきかなくなった。家に電話をかけてくるようになったのは五年の夏からだ。亜美の家に行こうと決めたとき、近づいてくる靴音が耳に入り目を凝《こ》らした。男だ、知らせに行こうと走り出してもう一度振り返ると、男はどこかの家に入ってしまったのか見当たらない。様子を窺《うかが》っていると、女の悲鳴が聞こえ、駿は危うく叫び声をあげるところだった。ひと塊《かたまり》に見える影が素早く三つに分かれたかと思うと、息を切らして走ってくる。祐治に肩を突き飛ばされてよろめいたが、駿はあわてて三人を追いかけて、走った。  公園へ逃げ込んだ。数分間はいまにも倒れそうな格好で腕をふらつかせ頭をぐらぐらさせて、せわしく息を吐いていたが直輝が純一の脇腹を小突いたのをきっかけに、三人は互いに小突き合って笑い出した。 「こいつがさぁ、うしろから抱きついておっぱい揉んだんだよぉ」祐治は口いっぱいになった笑いを噴いた。駿は顔を火照《ほて》らせながら直輝の首に腕を巻きつけ、擦り抜けた直輝が純一の胸を揉んで見せると、少年たちは一段と甲高《かんだか》い声で笑った。 「でもさ、あれな、すっげぇ悲鳴だったな」純一は興奮して眼鏡をかけたりはずしたりしている。 「やっぱさぁ三人じゃ駄目、すっげぇ暴れるんだもん、おれなんかハンドバッグで顔殴られちゃった。見張りいらねぇよ、わかるもんだれかきたら」と祐治。  突然純一が悲鳴をあげ顔を押さえた。飛んできたこがね虫が顔に打《ぶ》つかったのだ。 「殺せよ」祐治は茶褐色《ちやかつしよく》の腹を光らせて脚をばたつかせているこがね虫から目を離さずにいった。駿は自分に命じたのだと思った。短い沈黙のあと、祐治は無表情のままこがね虫を踏み潰《つぶ》し、駿を一瞥《いちべつ》して唾《つば》を吐いた。 「交番に行ってないかな」純一は声を落とした。 「やばいから早く帰ったほうがいいよ」と直輝。  今度はこの公園でやろうか、と祐治が目を細めて公園を見まわしたとき、駿はこれはゲームではなく犯罪だと気づいた。現実ナンダ。しかしその現実に崩れつつある秩序を建て直すほどの力があるのか、駿には自信がなかった。 [#地付き]土曜日[#「土曜日」はゴシック体]   油蝉《あぶらぜみ》の鳴き声は教室の四方八方から、天井から突き抜け床から湧き立つように聞こえる。生徒たちはそれが暑さから解放される唯一の手段だとでもいうように息を殺し画用紙に絵筆を走らせている。  駿は、教室のなかにいると皆が恐竜の胃袋におさまっているようだと思い、笑いがこみあげてきた。月曜日は終業式だ。駿は夏休みの校舎を思い浮かべる。夏休みの校舎は飢餓《きが》状態に陥《おちい》ったステゴザウルスのように、真夏の陽射《ひざ》しに無様《ぶざま》な姿を曝《さら》すしかない。  天気予報のキャスターは七月に入って、この夏一番の暑さです、を連発している。そのいずれもが土曜と日曜だった気がする。駿は鉛筆で下書きした父親の顔を筆の先で撫《な》でた。駿にとって父親の顔はだれよりも漠然として、明確な像を結ばない。この何年かまともに顔を見たことがないのだ。目のしたに隈《くま》を描き込んでいたら、水のつけすぎで目全体が内出血しているように滲《にじ》んでしまった。額の汗を拭《ぬぐ》って、画用紙に直接肌色のチューブをなすりつけた。父親よりも担任の杉村の顔に似ている気がする。杉村はつい数分まえまで、机の端を赤いボールペンで小刻みにたたきながら算数の答案を採点していたのだが、いまは居眠りをしている。チャイムまで十分あるのに皆は既《すで》に描きあげてしまったらしい。杉村が鼾《いびき》と同時に貧乏揺《びんぼうゆ》すりをしているのがおかしいのだろう、何人かがくすくす笑い、皆いっせいにおしゃべりをはじめた。亜美は三つ編みの先を刷毛《はけ》のようにして唇を撫でている。駿はどうしようもなく不細工《ぶさいく》に仕上がった父親の顔をみているうちに、苛立《いらだ》ちが抑《おさ》え切れなくなり、もう少しで画用紙を破るところだった。ひどく間延びしたチャイムが響いた。杉村は計ったように目を覚まし、悪びれもせず絵を回収して生徒が学級委員の掛け声とともに「起立」「礼」をすると、教室を出て行った。  パレットと筆を洗いに水飲み場に行くと既に列ができていた。時間がかかりそうなので、便所の洗面台で洗うことにして踵《きびす》を返した途端、亜美に出会《でくわ》した。亜美は額にかかった髪をはらいあげてにっこり笑い、気取った足取りで廊下の角を曲がっていった。  便所のなかは相変わらず臭くて暑い。さっさと洗おうと焦ったあまり手が滑り、筆を落としてしまった。洗面台の下に溜《た》まった汚水から筆をつまみあげたとき、駿の苛立ちは頂点に達した。赤マジックで〈故障中につき使用禁止〉と張り紙がしてある個室の扉を思い切り蹴飛ばした。蝶番《ちようつがい》がはずれて、扉は汚れた便器のうえに倒れた。駿はそのなかに絵筆を投げ棄てた。  駿が表玄関の靴箱のところへ行くと、直輝がいた。 「ふたりは?」 「高梨は宿題忘れて居残り、式部はどこ行ったかわかんない」 「高梨、式部にいったのかな」 「高梨もいったしおれもいったよ、放課後マック行こうって」直輝は唾液を飲んだ。 「式部のやつタカラレルと思って逃げたんじゃないの」 「ここ暑いから体育館の裏で涼もうぜ、おれ、コアラのマーチ持ってるし」  渡り廊下を歩いて体育館に近づくに従ってバドミントンの羽根が行ったり来たりする音、バスケットボールをドリブルする音、部活をしている生徒の掛け声が大きくなった。裏手にまわると、三勇士《さんゆうし》がいた。駿は直輝の顔を見た。直輝はチョウセンジンだということをばらされたくなかったら金を持ってこいと脅《おど》されているのだ。見ると、駿のクラスの新田《につた》が三勇士に取り囲まれている。ふたりは壊れて放置されている跳箱《とびばこ》の陰に隠れた。井手はいきなりシャドーボクシングをはじめ、じりじりと新田を追い詰めた。新田は手で懸命《けんめい》に顔をガードしている。井手のパンチが顔面ぎりぎりで寸止《すんど》めされ、三人がいっせいに頓狂《とんきよう》な声をあげると、新田は顔を覆《おお》って蹲《うずくま》り泣き出した。  駿はなぜ担任の木下が〈肉弾三勇士《にくだんさんゆうし》〉と名づけたのかわからなかった。言葉の響きから元気が良く勇ましいという意味だとは思うが、そのせいで三勇士が増長していることに気づかない教師にむかついていた。それに三勇士は教師たちとまるで友だちのような口をきき、教師はそれを嬉しがっているとしか思えないのだ。猿軍団ジャナイカ、教師ガ猿|廻《まわ》シデ、奴ラハ猿、オレタチダッテ見ザル、言ワザル、聞カザルダケド、本物ノ猿ハオマエラダロウニ。駿はいじめられるほうの子が教師に疎《うと》んじられていることが不思議だった。マ、ドジダカラダケド。  そのときバスケットボールのドリブルの音がやみ、井手が何をいっているのか聞き取ることができた。「五千円持ってこれねぇならマスかけよ」地面に団子虫のように丸くなっている新田の頭が左右に揺れた。矢島と谷が左右の腕を引っ張って立ちあがらせ、井手は新田の肩に手を置き、ささやきかけた。「ほらぁあきらちゃん、パンツぐらい自分で脱ぎ脱ぎできるでちょ」矢島と谷が腕を離すと、新田はズボンのボタンをはずしチャックに手をかけた。  うしろめたい気はしたが見ていられなくなって、ふたりは渡り廊下に戻った。祐治と純一が水飲み場の縁《ふち》に腰かけて脚をぶらぶらさせていた。 「おっせぇよ、ふたりでどこ行ってたんだよ」  きりきりした声で祐治は目をとがらせた。直輝が黙っているので、駿が体育館の裏で三勇士が金を持ってくるよう脅していたことを説明した。 「あいつらさ、新田をいじめてんだよ、新田のズボン脱がせてたんだぜ、いい加減にしてもらいたいよな」 「おまえも脅されてんだろ、チョウセンジンだってことばらすって」純一は鞄から下敷きを取り出して扇《あお》いだ。 「ばらされるとなんか困んの?」祐治が訊いた。  直輝は、三人が知っていることに驚いて、目を剥《む》いたまま黙っている。 「でもさ、なんでおまえチョウセンジンなのに日本にいるんだよ」純一は眉をひそめ、ひとさし指で眼鏡のフレームを押しあげた。 「わかんない」直輝は小さな声で答えた。 「木村って日本人の名前だろ、チョウセンジンだったら普通もっと変な名前なんじゃない? ほら、あれ、中日にも入ったピッチャー、あれなんて名前だったっけ?」純一は直輝のTシャツの袖《そで》を引っ張った。 「知らない。でもさ、おれ日本人なんだよ、おれキカしたし」 「そうだよ、どう見たってさ、チョウセンジンなんかに見えないもんな」と純一が肩をたたいたが、直輝はチューインガムでも踏んづけたようにスニーカーの裏を地面に擦《こす》りつけている。 「キカってなんだよ」祐治が勢いよく水道の蛇口をひねって顔にかけてからいった。  直輝は答えない。 「あいつらが新田をいじめてるって掲示板に貼り出してやろうぜ」祐治は話題を変えた。駿たちは、三勇士に復讐されるし字で先生にばれると反対したが、祐治が、字はおれが書く、いやならここで待ってればといい張るのでしぶしぶ校舎に引き返した。  祐治は掲示板の壁新聞をはずして裏返し、サインペンで大きく〈六年三組の井手と矢島と谷が一組の新田くんをカツアゲしてました〉と書いて画鋲《がびよう》で止めた。  校庭を突っ切って校門をくぐるまでの間、駿は目を細めてのひらで顔を蔽《おお》って、自責の念があまりにも強い光に曝《さら》されるのを防ごうとした。新田ノコトハ関係ナイ。しかし駿は体育館の裏で目撃した光景を心から削《そ》ぎ落とすことができなかった。直輝はうつむいて歩いていたが、マクドナルドの前にくるとようやく顔をあげ、おれダブルチーズバーガーとファンタ、と金冠《きんかん》をかぶせた前歯を見せて笑った。ひと月ほどまえに体育の授業中鉄棒に打《ぶ》つけて折ったのだ。  煙草の煙で曇った店内はほぼ満席だった。奥のほうを捜しにいった祐治が戻ってきて、空いてない、というので仕方なく自動扉のまえのテーブルに鞄を置いてカウンターに並んだ。  祐治は、三人がトレーのうえでひしめき合っているハンバーガー、チキンナゲットに手を伸ばし、ひと口目を飲み込んだ頃合を計って、「自転車置場のまえに八時な」と切り出し自分のビッグマックにかぶりついた。 「でも今日土曜だから学校とか会社とか休み多いんじゃないの」努めてさりげない口調で純一がいい、「もうやばいよ、こないだ警察行かれたかもしれないし」と駿が祐治に口をはさむ間を与えずにつづけた。  右どなりのテーブルから嬌声《きようせい》があがる。ちらっと見ると、セーラー服を着た女子高生四人がしゃべりまくっている。駿の目には、紺《こん》のプリーツで包んだ貧弱な尻、陽焼けした健康的な手脚が滑稽《こつけい》に映った。 「おれ、考えたんだけどさ」と祐治は鞄を開け、筆箱のなかから鉛筆を取り出し、「こうやるんだよ」ととなりに座っている純一の背中に突きつけて、「声出すな、出したら刺すぞって、暗いからなんなのかわかんなくて、びびんじゃないの」  駿はコーラの容器の蓋《ふた》をはずし口いっぱいに氷を含み、 「でも今日は無理だよ、だってまだ一時でしょ、夜まで時間|潰《つぶ》すわけいかないし、いったん帰って夜家出るの無理だし」といって噛《か》み砕《くだ》いた。 「おれは駄目、最近帰り遅いじゃん、疑ってんだよ、うちのババア」直輝がいうと、祐治は「じゃあ月曜、か」意外とあっさりあきらめた。  少年たちの声は他のテーブルと競い合って大きくなっていく。「おれ、いま、ファミコン壊れてるんだけどさ、このまえストゼロ全クリしたよ」「ストゼロよか、ぷよぷよ通のほうが面白いよ」「おれなんかさ、ドラクエ5でねぇ、99レベルの記録ふたつつくっておいてね、それ貸したら消されたんだな、これが」「おれもさぁ、井上に、FF6貸してやったのぉ、全部消された、レベル80までいったのにさ」「おれFF5でほとんど盗めないアイテムあるじゃん、それ盗んだときにぃ」「普通なら音しないとこから音出るんだろ、知ってるよ、おれも盗んだもん、デイロディロディロディロディーロ」「おまえ志望校決めた?」「野本は桐蔭《とういん》だろ」「トーインはトーイ」「すべり止めどっか受けんの」「野本クンはこのまえ余裕っていってたから桐蔭一本なんじゃないですか」「他にも受けるよ」「どこどこ」「二月二日、明大中野《めいだいなかの》」「ダサソ」「三日は横浜国大附属」「ツマンナソ」「おまえらは」「いまのを聞いちゃったらなぁ」「ねぇ」「野本クンとは偏差値《へんさち》ちがうもん」  直輝が口のまわりについたケチャップをレースぺーパーで拭き取ると気詰まりな沈黙が訪れ、四人の会話ははじまったときと同様、突然終わった。帰ろうか、純一がトレーを持って立ちあがった。  扉を開けると、父親の黒い革靴《かわぐつ》が揃《そろ》えてある。母親の声が車の撥《は》ねた泥水のように飛びかかってきて、駿は顔を顰《しか》めた。 「なんなの、あなたはわたしの考えかたのせいにするんですか。わたしだって歳をとるんです、いけないんですか」 「そんなことはいってないだろ、ママ」 「しっかりしてくださいよ、駿も理和も大事な時期なんですからね」 「それをいうなら理和も駿もだろ、上の子のほうを先に呼ぶのが一般的だ」 「また、そんな、ささいなことを、情《なさ》けないっ! あなたはそうやっていつも誤魔化《ごまか》すんだから、第一野本家では」 「家というのもやめなさい、ね、ママ。ここは家じゃないんだから」 「なんだっていうんです」 「箱だ、もっと軽く考えたほうがいい」  ふたりの声が途切れるまで玄関に居ようと思ったが、駿が爪先《つまさき》立ちで居間を通り抜けようとすると、ふたりはびくっと同時に駿を見て、「あら、しゅんちゃん帰ってたの、ただいまぐらいいいなさいよ」母親は滑稽《こつけい》なほど落ち着きはらい、いつもよりたっぷりした笑顔を見せた。駿は顔を見るたびにアルバムに貼られている美しい母親の痕跡《こんせき》を捜したが、今年四十五歳になる母親の額《ひたい》には縦皺《たてじわ》が一本深く刻《きざ》まれ、唇はかさついて皮がむけていた。父親は今日学校で描いた〈お父さんの顔〉そっくりだ。パレットで黒と赤が混じってしまったどろんとした澱《よど》んだ色。 「どうだ、夏休みお父さんと遊園地行くか、海でもいいぞ。一日ぐらいは塾休んだっていいだろ。駿、どこに行きたい?」  無神経で無頓着《むとんちやく》な言い草だ。遊園地行クカ、海デモイイゾダッテ、七歳デオレノトシガトマッテルンジャナイノ。父親の髭剃《ひげそ》りあとの切疵《きりきず》を見詰めているうちに咳《せき》が込み上げ、それは喉を絞《し》めつけた。駿はくり返し咳をした。 「だいじょうぶ? 風邪《かぜ》ひいたんじゃない?」母親は駿のそばに寄ってきて額に額を押しつけた。 「熱はないみたいねぇ」  駿はふらふらと廊下を歩いて自分の部屋に入り、ベッドに腰をおろした。何をすればいいかわからないまま立ちあがり、〈銀狼怪奇《ぎんろうかいき》ファイル〉を録画してあるカセットをビデオデッキに入れ再生ボタンを押したが、画像は歪《ゆが》み、黄色がかって見える。背中を丸めてテレビの色を調整しているうちに画面は真っ青になってしまった。駿は部屋の電気を消しベッドのうえでからだをくの字に折り曲げて股間に両手をはさんだ。  自分の歯軋《はぎし》りの音で目を醒《さ》まし、ゆっくりと上体を起こした。テレビからは青い光線、録画された悲鳴が部屋の空気をふるわせている。扉のしたにある僅《わず》かな隙間《すきま》から父親と母親の張り詰めた声が響いてくる。ふたりがなぜなんでもないことでいがみ合っているのか理解できない。そっと扉のノブをまわすと、微かに、カチッという音と蝶番《ちようつがい》が軋《きし》む音が響いた。「駿と理和のことさえなければ神谷町《かみやちよう》にしばらく帰ってるとこだけど」「しばらく会ってないな、お義母《かあ》さんにも」「何いってるんですか、このまえの日曜、会いたくないばっかりに帰ってこなかったくせに、いったいどこ泊まったんですか」「アポロ13号だよ、カプセル。一度ママも泊まってみたらいい」「なんで私が泊まらなければならないんですか」「そりゃそうだ」  駿はぐらついてドアのノブでからだを支えた。すると青い光がおりてきて音という音が吸い込まれ、父親と母親は恐ろしい形相《ぎようそう》でパントマイムをしている赤の他人に変身した。蜥蝪《とかげ》のように皺《しわ》の寄った首を振り何かを哮《わめ》きたてている女、男の脂《あぶら》で黄ばんだ歯並びの奥では合成着色料《ごうせいちやくしよくりよう》がたっぷり入ったキャンディーよりも赤い舌が不気味にうごめいている。女の唇が激しく動き、立ちあがった男が女の肩をつかんで激しく揺すった。駿は自分の目が曇り、歯が鳴っているのに気づかなかった。激しい頭痛。唇の端がぴくぴくとひきつりはじめ、息を大きく吸い込んで、「お父さん」という言葉を腐《くさ》ったものを間違って噛んでしまったときのように吐《は》き出した。男は火のついた煙草を手にしたまま近づき、空いているほうの手を駿に伸ばしたが、触れようとはしなかった。キーンと耳に響く静寂《せいじやく》、駿はからだを硬直させ、険《けわ》しい顔つきで歯を食い縛《しば》り、倒れた。  女は濡れタオルで駿の目を覆って、最初ノ発作イツ起コシタカ、アナタ、オボエテル? コノ子ガミッツノトキ、アナタ、オボエテル? アナタガ浮気シタトキヨ、アノトキワタシ、コノ子殺シテ自分モ死ノウト思ッテ、コノ子ノ首絞メタノ、ソノトキハジメテ発作起コシタノヨ、全部アナタノセイ。コンナトキニママ、ソンナ話ヲスルノハヨクナイ。ヨクナイデスッテ? マァイイワ、ドウシヨウ、救急車ヨビマスカ。イヤ、オレガ車デ。女が吐き出す湿《しめ》った臭《くさ》い息を頬《ほお》に感じながら駿はその声を遠くで聞いた。さらに遠くなる意識のなかでポケットに手を入れようとしたが、腕も指も硬直して動かない。男が抱きかかえて車で病院に連れて行こうとしているらしい。ナァニ、タダノ発作サ、ダイジョウブ、発作サ、ダッテ? オ父サン。 [#地付き]日曜日[#「日曜日」はゴシック体]   服を着替えて扉を開けた瞬間、家のなかの異様な静けさにぎょっとして、声もなく立ち尽くした。ダイニングテーブルで英字新聞を読んでいた父親は「具合どうだ」と駿の顔を見ずにいうとサラダボウルのとなりに置いてある英和辞典を手にとって、スペルをつぶやきながら、ページをめくった。台所から牛乳パックを持ってきた母親が、椅子を離して父親のとなりに座った。ガラス越《ご》しに射《さ》し込む剥《む》き出しの朝の光が、一睡《いつすい》もしていない母親の顔を容赦《ようしや》なく照らし出す。年齢にしては白いものが多い頭はぼさぼさで、目の縁は赤みがかって腫《は》れている。母親はひと口も食べようとせず、椅子に上体をもたせかけて両手を膝《ひざ》に置いている。英字新聞の砦《とりで》のなかでライターを擦《す》る音がして、烽火《のろし》のように立ちのぼった煙がほつれてゆくのを、駿はコーンフレイクを胃袋に詰めながら見届けた。理和は食卓につくなりコーンフレイクの箱をつかみ、シリアルボウルのなかにザァーッと零《こぼ》し牛乳をかけて食べはじめた。そして一度も顔をあげずに食べ終えると椅子を引いた。この場に置き去りにされまいと駿もあわてて立ちあがった。父親はテーブルのうえの指を組んで咳払《せきばら》いし、「ふたりとも座りなさい。ちょっと話したいことがあるから」とゆっくり英字新聞を折りたたんだ。 「しゅんちゃんまだ牛乳残ってるじゃない」と母親にいわれ、駿は仕方なく腰をおろしコーンフレイクのなくなった牛乳をスプーンですくって口に運んだが、理和は突っ立ったままで腕組みをし爪先《つまさき》で床をたたいている。 「お父さんも忙しいけど、おまえたちも大変だよな、ママもそれでまいってるみたいだ」  理和は父親をじっと見据《みす》え、「だからなんだっていうの、話はそれだけね」と自分の部屋に戻ろうとしたが、「お願い、理和、座って」母親の哀願する声に引き止められてしぶしぶ椅子に腰を落とした。父親は無造作に指の間にはさんだ煙草を振り、 「助け合ってこのクライシスを乗り切らなければならないってことかな」  母親はベランダに顔を背け、二日まえに干した洗濯物が風に吹かれて躍《おど》っているのをぼんやりと眺めていた。去年の夏まで母親がトマトやキュウリを植えていたプランターには雑草が生い繁っている。 「駿、わかったな」  駿は自分が幼児期に退行したように無邪気な表情になっていることを意識しながら、 「よくわかんない」  父親は一瞬言葉を失い、駿の視線から逃れようと煙草に火をつけようとしたが、 「そうだ、一度|訊《き》いてみようと思ったんだけど、いいかい」 「なに」 「おまえのクラスでゴルフやってる子、何人いる?」  駿はぽかんと父親の顔を眺めた。 「知らない、どうして」 「いや、いい、そうか、わかった」父親は首を左右に倒し、グキッグキッと音を鳴らした。 「あなた、何いってるんですか、理和が笑ってますよ。何がゴルフですか、ひとりもいやしませんよ、馬鹿馬鹿しい」 「国でも会社でもいま一番求められているのは、実は、リスクマネージメントなんだ、家族でもそうだ。これからはなるべくママに負担をかけないようにしよう。とにかく受験、受験と騒ぎたてるのはどうかな、これは一般論だけど。こんなとこだな、ママ、今日のところは」ほっとして笑顔をみせた父親は、ばさっという音に首をすくめてベランダを見た。鉄柵に鳩《はと》が止まっている。父親は立ちあがって、「おい米、米」と押し殺した声でいってからひとさし指を口にあて、忍び足でガラス戸に近づいていった。台所から戻った母親が米粒を手渡そうとすると、父親は首を振って片膝をつき、慎重にガラス戸を開けた。二十センチも開けないうちに鳩は羽根をひろげて飛び立った。「馬鹿だな」父親はてのひらに受け取った米粒をベランダに撒《ま》き、皆のほうに顔を向けてもう一度吐き棄てるようにいった。 「鳩は、馬鹿だ」 「女でしょ、女のひとができて、お母さんが怒ってるって話じゃないの? そうなんでしょ」そういって理和は居間から出ていった。駿もパーカを取りあげて出て行こうとすると、 「おい、話はまだ終わってないぞ」父親の顔からは哀《あわ》れなほど力が抜けていた。 「しゅんちゃん、どこ行くの」母親は手を伸ばして駿の頭を軽くたたき、「亜美の家」というと、「あんまり遅くまでお邪魔しないのよ」と甘い声でささやいた。駿は靴紐《くつひも》も結ばずに真夏の光のなかに飛び出した。英字新聞ナンテ読ムンジャネェヨ!  陽射しに頭や首を嬲《なぶ》られながら駿は全速力で家から離れた。亜美のマンションが近づくにつれ歩幅が狭くなり、しまいには視線を足下に落としてゆっくり歩いた。だれもいない家で亜美とふたりきりになることの意味が、膨《ふく》れあがったり萎《しぼ》んだりして息苦しい。駿は舗装《ほそう》したばかりでまだ熱の残るアスファルトに足跡をつけながら、自分が訪れるのを待っている亜美の姿を想像した。楽しいことが起こる予感を、駿は顔を顰《しか》めて振りはらった。額の汗が鼻先を伝って地面に落ち、小さな黒い点になった。顔をあげると、目も開けていられないほど眩《まぶ》しい日向《ひなた》を這《は》うように老婆が歩いてくる。擦《す》れ違いざまに投げて寄越した眼差しがあまりにも嫌悪に満ちていたので、駿は数歩進んだところで振り返ったが、太陽に漂白されてしまったのか、影ひとつ残っていなかった。あの路地を曲がったにちがいない、駿はきた道を戻って、老婆のうしろ姿が見えるはずの狭い路地の入口に佇《たたず》んだ。そこは袋小路《ふくろこうじ》だった。真夏の陽射しに凝視されているように思い、駿は両脚を踏んばった。ブロック塀の罅《ひび》に蟻《あり》が出たり入ったりしている。駿はずいぶん久しぶりに蟻を見る気がして、塀にてのひらを押しつけて数匹|潰《つぶ》し、亜美の家に行くことをようやく決心して、歩き出した。  両足の踝《くるぶし》を合わせてブザーを押すと、インターフォンで確かめられることもなく扉はひらいた。やっぱりきた、と微笑んだ亜美は駿が戸惑って眉を顰《しか》めるほどおとなっぽく見えた。学校ではいつもポニーテイルか三つ編みにしている髪の毛を肩に流し、銀色のビニール製のミニスカートにへそがでるショッキングピンクのタンクトップを着ている。 「なにぼうっとしてるの、あがってよ、だれもいないんだから」 「おじゃまします」  駿が鯱《しやちほこ》ばって脱いだ靴を、亜美は玄関マットに膝をついて揃え、広々としたリビングルームに案内した。 「そこ座って」  駿は染みひとつない藤色の絨毯《じゆうたん》を踏み、応接セットの黒い革のカウチにからだを沈めた。 「メロンあるんだけど、食べる?」 「うん、でもおれ、メロンあんまり好きじゃないんだけど」 「ウソ、じゃあ葡萄《ぶどう》にする?」  亜美は台所に行き、駿はリビングにひとり取り残された。ふかふかの座り心地と家のなかの静寂が、拘束《こうそく》感と同時にいいようのない疲労をもたらした。駿はここ数日の間に起こった出来事を切れ切れに思い出し、最初に女のあとをつけた先週の水曜日をひどく遠くに感じた。  亜美が葡萄と不細工にカットした林檎《りんご》とアイスティーをのせた盆をテーブルに置いた。 「お父さんはゴルフのあと呑んで帰るから十時過ぎるし、お母さんはそれよりちょっと早いくらい」  駿は落ち着きを失くして腰を浮かしかけた。 「野本くん桐蔭《とういん》でしょ、あたしも受けたかったんだけど、お母さんが駄目だっていうんだ。女学館《じよがくかん》といっしょの日だから、卒業生なんだ、あのひと。でも100%ポッチャン、だって成績表ワルツだもん」 「え? ワルツって何」 「立ってみて」  何がなんだかわからないまま立ちあがると、亜美は駿の手に指を伸ばした。指先が触れ合った途端、駿は顔を背け手を引っ込めたが、亜美は駿の両手をつかみ、一、二三、二、二三とワルツのステップを踏んだ。亜美のからだの匂いが立ちのぼってくる。並はずれて切れ長の目、片方の眉《まゆ》を悪戯《いたずら》っぽく吊りあげ微笑んでいる。 「まだわかんないの、野本くんはオール五でしょ、あたしは一、二三、二、二三」  からだに触れる亜美の肉体に気圧《けお》されてまともに見ることができない。 「あっ、痛っ」亜美は突然駿の手を離し、「切れちゃったかもしれない見て」と唇を指でめくって駿の指を唇に導いた。駿ははじめて女の唇に触れ、指を引っ込めた。亜美の歯列矯正《しれつきようせい》の器具は疵《きず》つけるぞといわんばかりに輝き、拒絶されているのか誘い込まれているのか、駿は亜美の唇を罠《わな》のように感じて後退《あとずさ》り、 「血は出てないよ」 「あたしの部屋でだべろ」 「え、どうして」 「ここキライ」 「どうして」  亜美は左手でタンクトップから出た腹部を撫《な》でながら、 「野本くんだって友だちがきたら、自分の部屋で遊ぶでしょ」  駿は不安な気持ちを抱えたまま亜美のあとをついていった。  部屋に入ると、亜美はまっすぐ鏡台の前に座り、指で髪を梳《す》き、肩にかかった髪をひとつにまとめた。うなじの血管がやわらかに脈打っている。「ベッドに座っていいよ」亜美は鏡台に映った駿に声をかけた。駿は鏡のなかの目に見張られているのを感じながらピンクの花柄のベッドカバーに腰掛け、部屋のあちこちに目を走らせた。レースのカーテン、テディベア、バービー人形、鏡台の紫色の化粧水、ヘアピンや毛が絡んだブラシ、亜美の匂いが部屋中に充満している。「あぁかゆい、あたしアトピーなの」亜美は背中の真ん中を掻《か》こうとして、産毛《うぶげ》が生えたわきのしたを覗《のぞ》かせ、ひとしきり背中を掻き毟《むし》ると立ちあがって、CDをかけた。流れ出した音楽は同じ歳の女子たちが熱中しているアイドルの歌ではなく、吐息のように掠《かす》れた外国の女性ヴォーカルだった。駿は逃げ場を失って、もはやどこを見ていればいいかさえわからなくなってしまい、枕の横に投げ出されている『オリーブ』を手にとりぱらぱらめくった。亜美は駿のとなりに腰掛けて、「ね、ひなのちゃんてチョーかわいいでしょ」と髪が尻の下まである少女モデルを指さし、駿が「そうかな、みんなともさかがかわいいっていってるけど」というと亜美の膝《ひざ》は駿の膝に押し当てられ、「え? あの子バカそうじゃん、ひなのは頭いいもん、いいっていうか、変わってるの、十六歳までに駈け落ちして、四畳半のアパートで貧乏生活するのが夢なんだって」銀色のミニスカートから覗いたふとももが駿の目のまえでひらかれ、膝が膝にいっそう強く押しつけられ、顔と顔の距離がますます狭まったので、駿は微笑《ほほえ》もうとしてそれができず、亜美の熱っぽい汗の匂いを嗅《か》ぐしかなかった。駿の視線に気づいたのか、亜美はふとももまでまくれていたスカートの裾《すそ》を両手で引っ張っておろした。その仕種《しぐさ》で、気づかないふりをしていた欲望が抑え切れなくなり鳩尾《みずおち》のあたりが痛くなった。「そろそろ帰ろうかな」とつぶやくと、亜美は駿がぼんやりひらいて持っていた雑誌をはたき落としててのひらをくすぐり、駿は嗄《か》れた笑い声をあげた。 「野本くん、最近ちょっと変だよ」 「え、そんなことないと思うけど」 「あたしを避けてる」 「気のせいだろ」 「なんか悩みあるでしょ」 「別に」  駿は亜美の得体の知れない力で揺さぶられている気がしてからだを少し離し、左手をポケットに入れた瞬間、ここ数日アストロブーメランを机のうえに置きっ放しにしていることに気づき、取り返しのつかない失敗を仕出かしてしまったようにがっくりと肩を落とした。駿は自分が薄汚い檻《おり》に閉じ込められた猿に思え、亜美の好奇な眼差しに堪えられず身を竦《すく》めた。 「いっちゃえよ」亜美が耳もとでささやいた。  どんなに大きな悩みを抱えていたとしてもひとつだけならたいしたことはない。駿にはこの数日間に降って湧いた出来事が結託《けつたく》して、自分を押し潰《つぶ》そうとしているように思える。何かひとつでも打ち明けられれば楽になるし、亜美の追及《ついきゆう》からも逃れられると焦《あせ》ったが、言葉にならない。カエッテネタホウガイイカモ。ふと頭のなかにある家までの地図が消えてしまった気がした。自分の行くべき場所は、ここを訪れるまえに見た老婆が消えた袋小路《ふくろこうじ》しかない、そう思うと、駿の目から涙があふれた。だいじょうぶ、亜美の唇から出る蒸気のように熱い息が耳朶《みみたぶ》に触れる。亜美はおや指のやわらかい腹で駿の手の甲に落ちた涙を拭き取ってから手を握りしめ、駿の頭を自分の肩にもたせかけ、優しく撫《な》でた。駿の涙は亜美のからだの熱で乾いてゆき、駿は亜美に溶けていきそうだった。  亜美は何もいわずベッドにたおれた。具合でも悪いのだろうか、それとも自分のほうが? 亜美は微《かす》かに眉を寄せ、焦点の定まらない目で駿を見詰めている。そして仰向《あおむ》けのままの姿勢で動きはじめた。両手を腰にやりボタンをはずすとファスナーを滑《すべ》らせてスカートをさげた。その両手が背中にまわり、なかなかはずれないブラジャーのホックをはずそうと俯《うつぶ》せになったとき、駿ははじめて亜美が何をしようとしているのか理解した。亜美はホックをはずしたブラジャーをタンクトップといっしょに枕のほうに放ると、仰向けに戻り両脚を僅《わず》かにひらいて、目を瞑《つむ》った。  駿は催眠術にかかったように亜美の肢体《したい》に目を這《は》わせた。すんなりと伸びた脚、レースの縁取《ふちど》りの白いパンティ、滑らかなカーブを描いて括《くび》れた腰、そして組んだ両腕からこぼれている乳房──、亜美はもう一度救いを求めるように駿を見た。  駿はベッドに両膝をついて亜美に覆《おお》い被《かぶ》さったが、どうすればいいかわからず、ただ抱き締めた。亜美が乳房を隠《かく》している腕をほどき、駿は頬に押しつけていた頬をゆっくりとしたにずらしていき、瞼《まぶた》に触れるまるい乳房を左手でぎゅっと握りしめると、亜美が目を瞑ったまま駿の手を握り返し乳房から離した。駿はピンク色に紅潮《こうちよう》し息づいている乳房に頬擦《ほおず》りしてから先端を口に含み、強く吸った。唾液《だえき》と汗でぬるぬるした乳房をてのひらでこねると、亜美の喘《あえ》ぐ声は激しくなり、駿のしたでからだをくねらせた。駿は自分でも意識しないうちにその動きにぴったりとからだを合わせ──、二度、三度と痙攣《けいれん》したあと、がくんと腰の力が抜け、亜美のからだにゆっくりと澱《よど》んでいった。  目を開けると、今まで自分を覆い隠していたものがすべてはぎ取られてしまったように感じて、駿は身震《みぶる》いした。恥ずかしい、というより醒《さ》め切っている自分に呆然《ぼうぜん》としてからだを起こした。ズボンのチャックの右側に染みがついている、あわててからだの向きを変え、おれ帰る、やっとの思いで声にしたが、亜美は手探りで枕をつかんで頭をのせ、寝っ転がって話そ、と笑みを浮かべた。駿は、帰る、弾《はじ》かれたように扉を開け、玄関に突進した。ダイッキライ、サイテー、という声を振り切って、外に出た。 [#地付き]月曜日[#「月曜日」はゴシック体]   体育館での終業式を終えて渡り廊下をわたって教室に戻る。通信簿をもらえば、夏休みだ。通信簿のまえに担任の杉村は夏休みのプリントを配り、説明をはじめた。駿は窓から射す真夏の陽光に堪えながら、朝からずっと亜美を恐れつづけている自分が情《なさ》けなかった。教室は異様《いよう》な喧噪《けんそう》と解放感で窮屈になっていく。はい静かに、はい注目、と杉村は何度も中断して声を張りあげるのだが、だれひとりとして関心をはらうものはいない、終業式に杉村が癇癪《かんしやく》を起こさないことを知っているからだ。杉村も五分で済む注意事項を三十分も引き延ばすことに飽いているのだ。五千円、用意できなかったのだろうか、新田だけが身じろぎひとつしない。  アカホリ、と名を呼ばれた最初の生徒が立ちあがり教壇の前で通信簿を受けとる段になって、ようやく生徒たちのおしゃべりは鎮《しず》まった。  タガワ、亜美が立つ。通信簿を受け取って席に戻るとき、駿は顔をあげ目が合ったが、亜美は噛《か》みつくような視線を投げて着席した。そんなことはありえないと思っても、亜美が昨日のことを暴露するのではないかという不安で胸が押し潰《つぶ》されそうだった。  ホームルームが終わると生徒たちはいっせいに校門へと向かった。祐治たちの教室を覗《のぞ》いたが、既《すで》にだれも残っていない。首と左腕に腕が絡んできてヘッドロックをかけられ首を捻《ひね》ると、純一だった。放せよ、殺すぞ、だれか助けてください、いじめでーす、駿は自分の声もまた明るさで塗《ぬ》り替えられていることに気づかなかった。ふたりはしばらく笑いながら技の掛け合いをして下駄箱に向かった。  駿と純一が下駄箱から靴を取り出そうとすると、直輝が現れた。直輝がふたりに背を向けて上履きを脱いだとき、下駄箱の裏から三勇士《さんゆうし》が顔を覗かせ、井手が直輝の衿首《えりくび》をつかんだ。どくどくと首の血管を脈打たせて直輝は手を伸ばし、下駄箱の蓋《ふた》を開けた。 「木村くぅん、一万円持ってきたぁ?」井手が馴《な》れ馴《な》れしい口調で訊いた。  直輝は井手の手をはらい、 「うっせぇな、消えろよ」掠《かす》れた声で吠《ほ》え、スニーカーを履き、汚れた上履きを袋に突っ込んでデイパックのなかに入れた。 「ナントカジンだってことばらされてもいいのぉ」と井手は直輝に自分の顔をすれすれまで近づけ、目玉を寄せたり一回転してみせたりした。  そとに出て急ぎ足で校門に向かうと、歯の隙間《すきま》からひゅうという音を出しながら三勇士はついてきた。「ちょっと顔貸してくれる」井手が直輝の前に立ち塞《ふさ》がった。直輝は薄い唇を引き締め首も動かさず、からだ中汗まみれになっていたが、三勇士に促され怯《おび》えた目で駿と純一をちらりと見てから歩き出した。ふたりはねばつく唾液《だえき》を飲んであとをついていったが、体育館のまえで純一が歩を停めおずおずと口をひらいた。 「祐治|捜《さが》そう、いなかったら先生にいうしかないよ」純一の目はいつもよりいっそう小さく眼鏡の奥に消えてしまいそうだ。駿は立ち停まり、直輝が三人の先頭に立って体育館の裏に消えて行くのを見過《みす》ごした。駿は入学式のときにはたしかにピカピカだった体育館のペンキが鱗《うろこ》のようにはげ落ちていることに気づいた。 「ねぇ、まずいよ、祐治捜さないと」純一は泣き出さんばかりだ。駿は返事に窮して太陽を見あげ、思わずくしゃみがでそうになったのを必死に堪えて、体育館に背を向けて歩いた。校舎に近づくにしたがって早足になり、上履きに履き替えた途端に駈け出した。  生徒は疎《まば》らで、校内は三十分前と打って変わって静まり返っている。駿と純一は校内の隅々《すみずみ》まで走りまわった。顔はすっかり上気し、わきのしたは湿り気を帯び、からだ全体から熱が立ちのぼっている。もう帰ったんじゃない、だったら先生に、とふたりは顔を見合わせたが、告《つ》げ口したら井手たちが自分に復讐するのではないかという不安が過《よぎ》った。三勇士はいじめの矛先《ほこさき》を自分に向け、無理矢理屋上か体育館の裏に連れて行きズボンのチャックを──、職員室へ向かおうとしたとき、祐治がぬっと現れた。 「今田に呼び出されちゃってさ、掲示板の張り紙だよ、いきなり、おまえやったんだろっていうから、おれ黙ってたんだよ、そしたら正直にいうまで帰さないっていいやがるから、ぼくがやりましたけど、学校でいじめが起きないようにみんなに注意したんですっていったんだよ」  祐治が勢い込んでしゃべるのでふたりは言葉をはさめない。 「したらさ、なんていったと思う? あいつ馬鹿だから、えらいぞ、そういう心がけが大事なんだって、馬鹿だな、笑えるだろ。あれっ、木村だ」  直輝が軽く手摺《てす》りに触れながら階段をあがってきた。鼻を指で押さえている、Tシャツの衿《えり》から胸にかけてかなりの量の乾いた血が付着している。 「あいつさ、井手さ、フェイントかけたつもりが、下手だからマジ入っちゃってさ、鼻に。鼻血ドバーッでびっくりして逃げちゃったんだ」直輝は笑みを浮かべようとして顔全体をくしゃくしゃにした。駿は直輝の頬の涙に気づいて、顔を伏《ふ》せた。直輝はTシャツの袖《そで》で額《ひたい》の汗を拭き、ついでのように頬の涙を拭き取った。 「おれ鼻血出やすいんだよ、幼稚園のころからしょっちゅう鼻血ブーでさ、それに暑いだろ、暑いとおれ、鼻血出てさ」直輝は笑おうとしたのだろうか、頬をぴくぴくさせたかと思うと、鼻血が唇から顎《あご》の先まで線を引いた。 「おれ、平気だし、仕方ないよ」直輝は顎をあげてうえを向き、ひとさし指とおや指で鼻をつまんだ。ハンカチ持ッテタラヨカッタノニ、駿は唇を噛んだ。 「でも、あいつらさ、だれから聞いたんだろ、チョウセンジンなんて」純一の声はふるえている。 「親じゃないの」直輝は何の感情も込めずにいった。 「じゃあさ、親はどうしてわかったのかな」 「わかんない」直輝はうつむき、「一万円なんて無理だし、行こ」顔を天に向けたまま歩き出した。 「明日の放課後さ、体育館の裏に井手だけ呼び出して袋にしてやろうぜ」 「馬鹿じゃん、明日から夏休み」直輝は立ち停まって、笑おうとしたがうまくいかず喉だけが苦しげな音をたて、三人もほっとして笑った。  黙っていた純一が突然「鼻殴られただけなの」と訊くと、直輝の視線が宙に浮いた。純一は眼鏡をはずそうとして顔にもっていった右手を左わきのしたにはさんでうつむいた。駿はせっかくおさまりかけたものをぶち壊した純一を呪った。祐治はまえを歩く直輝に、 「夏休み終わったらぼこぼこにしようぜ。それにさ、チョウセンジンなんていっぱいいるってうちのババアがいってたし」 「日本人だっていってるだろ!」  直輝は振り返って顔を歪《ゆが》ませた。  太陽によって占拠された校庭は静まり返っている。少年たちは影のように立ち竦《すく》んだ。祐治は自分たちに纏《まと》いつく暑さと沈黙を払い退《の》けるようにいった。 「今日八時半に自転車置場な」  少年たちは将棋倒しになっている数台の自転車を見おろした。駿は純一が、起こそうか、といい出すのを待ったが、四人はしばらくの間見おろしているだけだった。電車の音で改札に視線を移し、出てくるひとの顔を眺めた。ああ、駿と直輝の口から同時に呻《うめ》き声が洩れた。黄緑と白の縞模様《しまもよう》のTシャツに、おさまりきれそうもない尻を赤いマイクロミニラップパンツで包んでいる、きびきびと伸びやかな下半身に魅かれ駿は祐治の横顔に目を走らせたが、純一は「ズボンはちょっとな」と動こうとせず、祐治は「あれはどう?」と別の女を指さした。改札から出たその女の顔は陰になって暗かったが、目鼻立ちは整っている。豹柄《ひようがら》のベロア調上下、スカートの丈は膝頭《ひざがしら》が見えるくらいの丈であまり短くないが、祐治の目が熱っぽく光っているので、四人は歩き出した。一歩ごとに伸びきる膝、長身のからだをくねらせている女は、僅《わず》かに内股《うちまた》気味だ。あの服はどのように脱がせるのだろう、駿は想像した。背骨に沿ってファスナーをおろすと、服の左右が両開きの扉のようにひらき、背中が露《あらわ》になる、ブラジャーの色は、白、ピンク、ベージュ、黒、他に何色があるのか駿は知らない。アーケードのところで、女がいきなり振り返った。四人はあっ、と口をあけたまま棒立ちになった。女は腰に手をあて少年たちの全身を順番に眺め、何かいおうとしたが口をひらかず、にっと笑って踵《きびす》を返した。純一はそのうしろ姿にひどく間の抜けた声で、どうも、といって頭を下げた。  つぎの電車がくるまで七分ある。  祐治は唇を一文字に結んで、「あのさ、空地のところまでつけてくだろ、だれかがさ、急に腹が痛くなったことにして、空地の奥のほうでうずくまってんの、でさ、女んとこに走ってって、友だちが急におなか痛くなっちゃって助けてくださいって、連れてくんだよ、空地の奥に。で女がしゃがむだろ、だいじょうぶとかなんとかいって」「顔とか見られちゃうんじゃないの」純一が腕時計に目を落とすと、祐治は「顔見られるのはまずいな」といい唇を一文字に戻し、駅に向かって歩き出した。四人は汗ばんだうなじに微《かす》かな風を感じた。どこかのスナックからカラオケの演歌が流れ、次いで別の音が近づいてくるのに気づいた。電車のブレーキの音、階段をのぼってくる靴音、四人は自転車置場を通り過ぎ、改札口に向かって走った。  顔をなるべく見られないよう雑談を装いながら、粘《ねば》ついた視線を右から左へ移動させて女を物色する。不意に立ちあがった風は、女たちの髪を生き生きと揺らし、スカートを尻や足に纏《まと》いつかせて、からだの起伏を少年たちに見せつける。女が幕開きの音楽を待つダンサーのように首筋を伸ばして自信に満ちた乳房を突き出し、陽焼けしている細い腕を大きく振ってまえを通り過ぎたとき、駿は喘《あえ》ぎ、あれだ、からだの奥を衝《つ》いて声が出た。  短いが、刈り上げたわけではない髪、肩紐《かたひも》のないシャーリングのタンクトップは檸檬《れもん》色、白とオレンジのギンガムチェックのスカート、背中と肩と脚を完全に露出している。  駿は心臓を搏《う》つ音が全身にひろがり外にまで飛び出して女の耳にも届くのではないかと思いながら、ときどき怯《おび》えた顔でうしろを振り向いた。祐治たちに何か声をかけたかったが、樹脂《じゆし》のようにねばっこい唾液《だえき》が歯の間に絡《から》みつき、舌を痺《しび》れさせている。  間隔を縮めるのはまだ早い、路地に入ってからだ。駿は地面を見ずに女ばかり見ていたため石ころか何かに躓《つまず》いて一、二度よろめいたが、女は暗闇を歩いている不安気な素振りは見せず、軽やかな足取りで路地に近づいていった。せいぜい四メートルか五メートルしか離れていない肉体。女のからだは十メートル置きにある電柱の光を受けると、陽光を燦々《さんさん》と浴びるよりも輝いて見え、光の輪から踏み出ても、光は黴《かび》のように女の服に付着して離れたがらない。女のからだに交互に触れる光と闇、少年たちは恐怖と不安から徐々に解放され、ぎこちなく感じられる腕や脚、からだの節々《ふしぶし》が心地好く緩《ゆる》んでゆくのを感じた。ボクタチハモウ十分ニ親密ナ間ナンダヨ。  駿は執拗に脳裏に浮かびあがる、快感と罪悪感がない交ぜになった亜美との記憶を振りはらおうと、ポケットから鉛筆を取り出して握りしめた。一歩、二歩と、女との距離は縮まる。光の届かない場所では、女のからだは真っ黒な肉の塊《かたまり》に見える。  少年たちは何の合図もなしに突然女に襲いかかり、空地のなかにからだごともつれ込んだ。直輝と純一の手は女の手首に伸び、駿は鉛筆を喉につきつけようとしながら声を出せない。祐治は背後から羽交《はが》い締《じ》めにしようとして飛びついては、振りはらわれた。少年たちの脚が草を蹴《け》るせわしい音と呼吸の音が交錯《こうさく》する。空地の真ん中まできたとき、女の喉から叫び声が迸《ほとばし》り、手を振りはらい、脚を蹴りあげた。弾みで駿は尻もちをつき、闇雲《やみくも》に鉛筆を振り回した。女は何かわけのわからないことを叫んでいる。駿は鉛筆を棄てて女の手首をつかもうとして、つかみ損ね、もう一度つかみかかったが、女はからだを捩《よじ》り顔を歪《ゆが》め、叫んだ。駿は萎《な》えそうになる力を振り絞《しぼ》って女の腰にしがみつく。祐治が脚にタックルして叢《くさむら》に突き倒すと、直輝が素早く両手で女の口を塞《ふさ》いだが、女はなかなか手首をつかめない純一の顔を爪《つめ》で掻《か》き毟《むし》り、助けて、直輝の汗ばんだ手の隙間《すきま》から叫び声を洩《も》らした。祐治がからだを覆っているタンクトップに手をかけると女は全身でもがいた。祐治は遮二無二暴《しやにむにあば》れる女のからだを腕の力で押さえ込もうとしているうちに胃のあたりに膝蹴《ひざげ》りを食らい、思わず手を離した。顔面を真っ赤にした女は四つん這《ば》いで通りに逃げようとしたが、駿は女のスカートをつかみ、祐治は腰に抱きついて仰向《あおむ》けに押し倒し、直輝と純一がタンクトップを毟り取った。祐治は裾《すそ》をつかんでぎくしゃくした手つきで斜《なな》めにまくりあげ、女の頭のほうから手を出した直輝がブラジャーを首まで引っ張ると、大きな乳房がぶるんとふるえて剥《む》き出しになった。女は激しく腰を振って抗《あらが》ったが、祐治がパンティを腿《もも》までおろすと急に力を抜いておとなしくなった。純一と直輝が乳房を揉《も》んでも、勢い込んで女のうえに上体を屈《かが》めた祐治の手が腹から乳房へと何度触っても、女は荒い息を吐き出すだけでびくともしない。直輝と純一はふとももを撫《な》でながらその奥を覗《のぞ》き込んでいる。祐治が駿に目配《めくば》せしたとき、女が呻《うめ》き声を洩らした。  子どもじゃない、ガキのくせに、そう聞こえて、びくっと動きを止めた少年たちは眼球《がんきゆう》だけで周囲を見まわした。地面を這うように女の啜《すす》り泣きがひろがってゆく。少年たちはゆっくりと立ちあがり、泣いている女を見おろした。女の目は虚空《こくう》を見詰め、目尻から零《こぼ》れた涙が耳の穴に流れ落ちている。乳房は剥《む》かれて投げ棄てられた果実のようにいまにも干涸《ひから》びてしまいそうだった。黒いパンティだけが欲望の証《あかし》のようにひらかれた脚の間でぴんと張っていた。女は自由になったにも拘《かかわ》らず押さえつけられたままの格好で動こうとしない。少年たちの目にはトラックに轢《ひ》かれた死体に見え、女を見おろしたままふるえる脚で後退《あとずさ》り、いっせいに駈け出した。  駿はベルトで通したポシェットから定期券を取り出して自動改札に入れた。階段をおりてプラットホームに立つと、ベンチに直輝と純一が並んでいるのが目に入り、思わず階段の裏側に身を隠《かく》した。顔ヲアワセタクナイ。そういえば祐治がいない、捕まったのか、一瞬不安が過《よぎ》ったが、電車がホームに辷《すべ》り込むと同時に掻《か》き消えた。駿はふたりに見つからないよう扉がひらいてもすぐには乗り込まず、発車を告げるメロディーが流れてから飛び乗った。自動扉が閉まる。乗客たちに背を向けて窓のまえに突っ立ったまま、ガラスに映る自分の姿を見た。夏草の汁で汚れたスニーカーから伝わってくる空地の匂いを振りはらおうと、先頭の車輛《しやりよう》まで歩き、ガラスに額を押しつけて運転室越しに見えるレールに目を凝《こ》らした。  電車からおりた駿は、男や女に混じって足早に改札をくぐり、タクシー乗り場のまえにある電話ボックスに入った。テレフォンカードを差し込み、亜美の家の番号を押した。 「もしもし田川でございますが」亜美の母親が出た。 「あの、野本ですけど」 「亜美ですね、ちょっと待ってて、亜美、亜美! 野本くんよ」  待っている間、駿は薄ぼけた微笑を口もとに浮かべていた。 「なんなの」亜美はかなり待たせてから電話口に出た。 「なんなのって」駿の心臓の動きがたどたどしくなった。 「なんの用ってこと」 「話したくて」  亜美は電話口で、ふんと鼻を鳴らし、「馬鹿みたい、死ねば」と電話に出た母親そっくりの声でいい、それからいつもの声に戻って、あなたが死ぬ日までバイ、と電話を切った。駿は受話器を置いて額の汗を汚れた手で擦《こす》った。急に胸苦しくなって、駿は毛玉を吐き出そうとする猫のように激しく咳《せ》き込んだ。  駿は家の扉の前で数分間立ち尽くしていた。隙間から見ると鍵がかかっていないのがわかる。把手《とつて》をつかみ、音をたてないようにさげて、扉を開けた。  母親はいない。その代わり理和がダイニングテーブルに座っている。灰皿には煙草の吸《す》い殻《がら》、父親がいたのだ。何があったか薄々想像がつく。しかし駿を見あげた理和の目からは何の感情も流れ出てこない。  理和は組んでいた足をほどき、 「ごはん食べたの」 「食べてないけど、あっ、食べたかな」 「カレーあっためるから食べなさい」と理和が有無をいわせない口調でいってから台所へ行くと、駿は自分を取り巻いている空気に堪え難くなった。リモコンでテレビのスイッチを入れる。整った顔だちの女性キャスターが抑揚《よくよう》のない声でニュースを紹介している。駿は音声を消した。しばらく観ていたが、1から順にチャンネルを変え、スイッチを切った。理和がカレーライスを運んできた。  理和は正面に座って、カレーライスを食べる駿を見ている。 「お母さんは」 「神谷町《かみやちよう》」理和は母親の実家の町名をいった。 「ごちそうさま」駿はグラスに口をつけて水を飲み干《ほ》した。 「おかわりは」 「おなかいっぱい」駿は背骨を伸ばすために両のてのひらを椅子のひじかけに押し当てた。それまで駿を見ていた理和の目が何も映っていないブラウン管に移って、もう一度ゆっくりと駿に戻った。 「これから何も考えないこと、いい、考えちゃ駄目。受験が終わる二月まで問題を読んで解けばいいの。大学に合格するまで解きつづけて、考えるのは大学に入ってからにしなさい。お姉ちゃんもそうすることに決めた」  労《いたわ》るのでも、慰《なぐさ》めるのでもない、僅《わず》かの感傷さえ含まない厳しい声だった。駿は肯定も反発もせずに視線を落としたが、ちがう、と思った。きっと大学に入っても会社に入っても、考えることなど不要なのだ。 「考えたら?」駿はうつむいたまま訊ねた。 「何を? 考えるようなことがある? 私立をなぜ受験するのかとか、大学に行く意味? お父さんとお母さんのこと? 離婚するかどうか知らないけど、それを考えてどうする? 考える価値なんてある? なんにも答えはない、点数さえつけられないくだらないことじゃない、そんなものはゼロなのよ」 「わかったよ。考えないことにする」駿は静かに答えて立ちあがった。居間のドアを開け自分の部屋に一歩踏み出そうとしてそのまま動かなかった。理和が感情的な言葉を発し、荒れ狂うのを待った。駿はやわらかな苦笑を浮かべてドアを閉めた。  鍵をかけてベッドの端に腰をおろし、蛍光灯《けいこうとう》に照らされた机、椅子、本棚を埋め尽くす二十冊以上の参考書、何もかもがいつもの場所に置かれていることを確認してから、勉強机のうえで参考書をひらくと、女の裸体、亜美との電話、母親と父親の離婚ばかりか、夏それ自体が非現実なものになりはじめ、遂《つい》には視界からも意識からも消えてしまった。 〈右の図は1辺が1cmの立方体です。立方体の表面上を動く点をPとするとき、つぎの各問いに答えなさい。(問1)点PがAを出発して、AからF、FからHのように対角線上を動きます。同じ対角線を再び通ることなくAにもどってくるもどり方は何通りありますか〉  駿は完全に閉じてしまった夏の代わりに、からだの隅々《すみずみ》にまで数式のような完璧な秩序が甦《よみがえ》ったことを知って心から安堵《あんど》した。コンナノ簡単ダ、一分デトイテヤル。  初出  女学生の友 「別册文藝春秋」二二八号(平成十一年六月)      少年倶楽部 「文學界」平成八年五月号  単行本 平成十一年九月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十四年九月十日刊